さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策
What should we do now? Explore the history of Japan and the world.
〜 PEKのひとりごと PEK’s soliloquy 〜
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xiii’’’’’’’’’’’’’)番外編12 日本滅亡と帝国海軍(Ⅸ)逃げる連合艦隊
連合艦隊の戦いぶり
いわゆる「海軍善玉説」は次のようなものだろう。敵艦を沈めても沈めても、敵はどんどん新しい船を作って戦場に投入してきた。敵機を撃ち落としても撃ち落としても、敵はどんどん新しい飛行機を作って投入した。
海軍はよく戦った。敵の物量に負けた。本来戦うべきではなかった国を、誰かのせいで敵として相手にさせられただけだ、と。
ただ、海軍の戦い方とはどのようなものだったのか?本稿でこれまで見てきたその特徴は次のようなものである(脚注141、142、165、166)。
a)米国や世界と戦うことの全てが、戦術や戦略を含めて海軍に任されている考えた。
b)国家としての基本戦略を無視した。
c)国家として立てた絶対国防圏構想も骨抜きにした。
d)艦隊決戦という戦術だけに興味があり、それだけに集中していた。
e)高度な陸海軍統合作戦を行なうことができなかった。
f)通商破壊戦をしなかった。
g)自軍の後方兵站を重視しなかった。
h)前方決戦至上主義だった。
i)攻勢終末点を知らなかった。
j)消耗戦を強いられ敵術中に嵌った。
k)そもそも国家総力戦というものを理解していなかった。
l)どのように戦争に勝つか、どのように終わらせるか戦略がなかった。
m)航空機搭乗員の補充計画が杜撰だった。
n)メンツにこだわりウソの報告をして軍首脳部、政府、国民を欺いた。
o)撤退という決断がなかなかできず、徹底的に守るという意識が薄かった。
一見、欠点をあげつらっているようだ。しかし、これらは残念ながら厳粛な事実である。本稿では、連合艦隊がそれぞれの海戦でどのように戦ったかを検証する。
海戦は海軍のお得意とする「艦隊決戦」そのものだ。あるいはその「ひな形」である。海軍は、勝手に前方決戦、外郭要地攻略戦、FS作戦など、攻勢終末点を越えて突き進んでいった(脚注103、150)。そういった戦場で起こった「海戦」の真実を見ていこう。
佐藤氏の結論はこうだ。連合艦隊は、広い太平洋を逃げ回っていた。ある時期は瀬戸内海などで惰眠を貪っていた、と。果たしてその通りなのだろうか?
珊瑚海海戦
(一九四二年五月七日)(脚注126)
東ニューギニア南部ポートモレスビーはその地方最大の都市である。連合軍の基地が存在する。東ニューギニアから海を隔てて東北にニューブリテン島がある。そこのラバウル航空基地を日本軍は攻略した。だが、ポートモレスビーからの航空攻撃により安全を脅かされていた。
図34 珊瑚海海戦の地図
一九四二年五月七日(脚注126)。
日本軍は海側からのポートモレスビー攻略を企図する。上陸部隊支援のため駆けつけた連合艦隊機動部隊とそれを阻止しようとする米豪連合軍機動部隊の戦いが、一九四二年五月七日に行なわれた。珊瑚海海戦は史上初の空母同士の戦闘と言われる。
日本側空母三隻のうち、護衛軽空母「祥鳳」が沈没、正規空母「翔鶴」が中破。対して、米軍側空母二隻のうち、空母「レキシントン」が沈没し、空母「ヨークタウン」中破。日本側機動部隊の空母「瑞鶴」は残って米艦隊は戦場を離脱する。
形のうえでは日本海軍の圧倒的勝利だった。手負いの「ヨークタウン」は敗走している。ただ一隻無傷の「瑞鶴」が追撃しトドメを刺そうという具申があった。しかし、井上成美司令官はその意見を退ける。井上艦隊はどうしたか?
ここで不思議なことが起こる。井上は戦場から逃げてしまった。負けた方ばかりでなく、勝った方も戦場からいなくなってしまった。これを「艦隊保全主義」というらしい。井上艦隊が本来目的としていた、東ニューギニア南部のポートモレスビー攻略は不成功に終わる。
敵は戦場から去っている。井上成美はどちらも自由に選べた。敗走する「ヨークタウン」を殲滅することもできた。戦略目標であったポートモレスビー攻略を支援することも可能だった。なのに何故、そのどちらも選ばなかったのか?
ラバウル飛行場は敵爆撃機の航続距離内にとどまる。後に、日本陸軍は三千メートル級のオーウェン・スタンレー山脈を越えて、陸路によるポートモレスビー攻略を計画。投入された南海枝隊は補給が途絶える中、壊滅的損害を強いられる。
「翔鶴」は長々とドック入りして六月五日のミッドウェーには間に合わない。「瑞鶴」は健在ながら、航空戦隊再編のためにミッドウェー参加を見送っている。生き残ってハワイに還った「ヨークタウン」は突貫工事で応急修理を行いミッドウェー参戦に間に合わせる(脚注167)。
井上成美の判断が、後でどれだけの犠牲を強いることになったか!井上は慎重すぎた。怠慢のそしりを免れない。軍人にとって最も大事な勇気がなかった。臆病だった(脚注38)。
第一次ソロモン海戦
(米側呼称「サボ島沖海戦」一九四二年八月八〜九日)(脚注168)
米軍の反攻が始まる。一九四二年八月七日午前四時、ガダルカナル島に米海兵隊主力約一万一千人が上陸。米軍は引き続き物資の陸揚を続けていた。日本軍第八艦隊は上陸部隊への攻撃を企図。米海軍は第六二任務部隊に迎え撃たせる。
八日夜半から両艦隊がガダルカナル島の北にあるサボ島周辺で交戦。米軍は重巡洋艦六隻中四隻が沈没、一隻が大破という大損害を受ける。日本軍は重巡洋艦五隻中一隻が敵潜水艦により撃沈、一隻が小破するにとどまった。
図35 第一次ソロモン海戦
一九四二年八月八〜九日。 日本海軍艦隊の侵入路(脚注168)。
海戦としては日本側の完勝だった。日本海軍の夜戦能力の高さを証明した。敵護衛艦隊は壊滅した。しかし、ここでまた不思議なことが起こる。
三上中将率いる第八艦隊は、本来の作戦目的である輸送船団撃滅を省略してしまうのである。夜明け後の敵機動部隊による攻撃を怖れ、戦場を離れて帰投する。敵輸送船団は「やすやすとガ島に上陸して、海軍の飛行場を占領してしまった」(脚注58)。
「日本軍は早い段階で米軍侵攻部隊の貨物船や軍隊輸送船に対して、多大の回復不可能な損失を与える機会があったにもかかわらず、連合軍の軍艦に対して戦術的に勝利したことに満足し、かつ自身の安全を過度に案じたために結局引き返してしまった」(脚注104、169)。
「ミカンを取りに行って、皮だけ持って帰ったのか!」ラバウル司令部二見秋三郎参謀長は嘆いたという。日本の戦術的勝利だったが、戦略的には完全な敗北だった。
第二次ソロモン海戦
(米側呼称「東部ソロモン海戦」一九四二年八月二四日)(脚注170)
米軍の反攻が始まって二週間余り、日本軍は一九四二年八月二十五日頃までにガダルカナル島を奪還する計画を立てる。増援部隊輸送の支援を、第二艦隊と第三艦隊によって行なうことを決定。米軍は第六十二任務部隊を差し向ける。
米軍は空母「サラトガ」「エンタープライズ」「ワスプ」の三隻のうち、「エンタープライズ」中破の損害を蒙る。対して日本軍は、空母は「翔鶴」「瑞鶴」「龍驤(りゅうじょう)」の三隻のうち、軽空母「龍驤」を撃沈され、艦載機も多数失う。
海戦自体は引き分けとも言うべき結果だったが、日本軍の増援部隊輸送支援は失敗してしまう。米軍はガダルカナル島ヘンダーソン飛行場にさらに航空戦力を増強する。基地飛行場からの敵航空攻撃が優勢となる。
しかし、味方潜水艦が大殊勲を挙げる。八月三十一日「サラトガ」を大破させる。それに続き、九月十五日「ワスプ」まで沈めた。米軍機動部隊の空母は「ホーネット」一隻となった。米軍は意気消沈していた。
図36 伊号潜水艦が放った魚雷が命中し炎上する空母「ワスプ」
第二次ソロモン海戦終了後の一九四二年九月十五日( 脚注170)。
にもかかわらず、連合艦隊は戦艦も空母も北へ北へと迂回してガダルカナル島には近づかなくなった。
南太平洋海戦
(米側呼称「サンタ・クルーズ諸島海戦」一九四二年十月二十六日)(脚注171)
一九四二年十月十三〜十四日、日本海軍は戦艦「金剛」「榛名」などを派遣し、ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場を艦砲射撃する。
当時、米軍側のニミッツ提督は、南太平洋司令官をハルゼーに、機動部隊司令官をキンケイドに交替するという衝撃人事に出ていた。敵日本軍が陸上部隊を支援するために、海軍戦力を集結して攻撃に出ることを警戒した。
事実、ガダルカナル島日本陸軍の総攻撃を支援するため、帝国海軍は空母「翔鶴」「瑞鶴」「瑞鳳」「隼鷹」四隻を主力とする合計三十八艦を前線に送る。
対する米海軍は、第二次ソロモン海戦で損傷した「エンタープライズ」の修理を急ぎ完了させ、無傷の空母「ホーネット」などに合流させる。動員した艦船は合計二十六隻。ハルゼーは劣った戦力で敵機動部隊を迎え撃ち逆襲を試みた。
日本側の損害は、空母「翔鶴」「瑞鳳」二隻中破、その他二隻小〜大破、航空機損失九二機、パイロット戦死一四八人、艦船乗組員戦死二五〇〜三五〇人。
米軍側の損害は、空母「ホーネット」沈没、「エンタープライズ」中破、その他一隻沈没、三隻小〜大破、航空機損失七四機、パイロット戦死三九人、艦船乗組員戦死二五四人。
図37 駆逐艦に乗組員を退艦させる空母「ホーネット」
一九四二年十月二十六日。 南太平洋海戦(脚注171)。
海戦自体は日本の勝利。米軍の稼働空母は一時的に「ゼロ」となる。アメリカ軍側に「史上最悪の海軍記念日」とまで言わしめた(脚注172)。しかし、海軍による陸軍部隊支援という日本側の目的は結果的に果たせなかった。
本海戦の勝利には、良くも悪くも、指揮官の技量が大きな影響を与えている。南雲忠一中将第一航空戦隊司令官と角田覚治少将第二航空戦隊司令官のことである。
南雲忠一中将は、敵の索敵機に発見されては反転して退避することを繰り返した。空母を危険にさらすことを恐れ、慎重な行動をとった。「翔鶴」「瑞鳳」の損傷後は、残る「瑞鶴」の指揮を角田覚治少将に委ねて戦場を後にした。
角田は、炎上中の「ホーネット」に向かった攻撃隊を、無傷の「エンタープライズ」が発見されるや即座に攻撃目標の変更を命じる。「エンタープライズ」撃破後、先の攻撃で炎上していた「ホーネット」に止めを刺した。角田の柔軟にして即断即決の指揮は高く評価されている(脚注173)。
佐藤氏は不思議がる。なぜ「エンタープライズ」の追撃をさらに徹底しなかったのか?また、敵を一蹴したあとに何故手抜きをしたのか?
次の第三次ソロモン海戦では、空母「翔鶴」「隼鷹」、戦艦「武蔵」「大和」「陸奥」「長門」などを投入しなかった。対して米軍側は、またもや「エンタープライズ」を応急修理し間に合わせている。
第三次ソロモン海戦
(一九四二年十一月十二〜十五日)(脚注174)
ガダルカナル島をめぐる攻防の最後の大規模海戦である。一九四二年十一月十三日未明の第一夜戦と十四日深夜から十五日の第二夜戦からなる。
第一夜戦の日本側編成は、戦艦二隻を含む合計十四艦。米軍側の編成は重巡洋艦二隻を含む合計十三隻だった。日本側の損害も大きかったが、米軍が受けた損傷は壊滅的だった。しかし、例によって日本は戦艦による艦砲射撃を断念する。
第二夜戦の日米両軍編成は、戦艦一隻を含む合計九艦に対して戦艦二隻を含む合計八隻。日本軍は戦艦と駆逐艦を一隻ずつ失う。米軍側損害は戦艦一隻小破、駆逐艦四隻沈没、一隻大破、一隻小破。
またまた日本軍は艦砲射撃を断念。輸送船団の過半を失った。輸送船団の田中提督は、残った四隻を浅瀬に座礁させて陸軍将兵五千人ガダルカナル島上陸を敢行した。しかし物資の大半は炎上。
図38 ガダルカナル島沖で撃沈された日本の輸送船
一九四二年十一月十五日。 第三次ソロモン海戦(脚注174)。
すでに述べたように、米軍側が唯一の空母「エンタープライズ」を応急修理して本海戦に間に合わせた。対して日本側は、南太平洋海戦で無傷だった「瑞鶴」「隼鷹」を参戦させず、結果として温存。艦砲射撃のための戦艦も、「大和」「武蔵」クラスは温存。
米海軍は大型艦の絶対数が不足していた。その中でガダルカナル島の防衛に成功する。日本海軍はこれらの海戦以降、水上戦闘部隊と輸送船団によるガダルカナル島への増援と補給を諦める(脚注175,176)。
南太平洋海戦と第三次ソロモン海戦の結果、敵の稼働空母は当分ゼロないし一隻。戦艦の戦力も激減。ガダルカナル周辺の敵艦隊は壊滅状況になった。
しかし、またまたここで不思議なことが起こる。十隻の戦艦とそれとほぼ同数の空母を擁するわが艦隊が戦場から姿を消してしまった。
佐藤氏は言う。「この艦隊が再び戦場に姿を現すのは、それから一年八ヶ月も後のマリアナ沖海戦なのである。日本海軍が、勝利の戦機を捨てて戦場を去った例は珍しくないが、これほど長期にわたる戦場離脱は古今東西に例がないのではあるまいか」と(脚注38)。
なぜ、一九四二年八月から十二月のタイミングで、連合艦隊はリスクを冒してでも全力で制海権を握ろうとしなかったのだろう。
海軍独自で始めたガ島作戦は思いもよらぬ米軍の反撃に遭う。そうすると海軍はおのれの戦力を出し惜しみする。そして陸軍への責任転嫁を企てるようになる。宇垣纏元帝国海軍中将は日記「戦藻録」に次のようなことを書いている(脚注177)。
ガダルカナル島は奪回不可能である。海軍としてはもう止めたい。が…、艦隊より不能論を持ちかけることは不可なり。撤退論にせよ、無理押しは禁物にして、自然的に彼ら(陸軍)が已むなきを自解せしむること肝要である、と。
佐藤氏は嘆息する。「ずいぶんと身勝手な言い草である。ガ島が米軍にとられるや、海軍は次々に陸軍に奪回要請を続けた。だが、海軍は、陸軍部隊のラバウルからガ島へのまともな輸送は行なわなかった」と。
ガダルカナル島の攻防を巡る大敗の原因は次のようなものだった。日本海軍の驕り。敵戦力の侮り(脚注178)。戦力の逐次投入。海軍の戦力の温存。出し惜しみ。輸送船団撃破という肝腎かなめのチャンスにおける臆病。
レイテ沖海戦
(フィリピン海海戦)(脚注179)
レイテ沖海戦は細分すると、シブヤン海海戦(二十四日八〜十六時)、スリガオ海峡海戦(二十五日三〜五時)、エンガノ岬沖海戦(二十五日八〜十八時)、サマール沖海戦(二十五日七〜九時)の四つの海戦からなる。
フィリピン攻防戦である。日本側の劣勢はハッキリしていた。とはいえ、日本軍は米軍に最後の一撃を与える捨て身の作戦を立てた。複雑で成功の見通しが極めて少ない作戦ではあった。
しかし、何があるか分からない。「ほとんど成功直前までいった」「作戦としては成功したと言うべきかも知れないが、肝腎の戦闘部隊が勝機を捨てて逃げ帰ってきた」という結末を迎える(脚注58)。
構想は以下の通りである。
a)小沢機動部隊を囮部隊としてハルゼー機動部隊を北につり出す
b)第一遊撃部隊主隊「栗田艦隊」は、東側からレイテ湾の敵泊地に突入する
(シブヤン海からサンベルナルジノ海峡を突破するルートを辿る)
c)第一遊撃部隊枝隊「西村艦隊」は、南方からレイテ湾の敵泊地に突入する
(スリガオ海峡南口を通過するルートをとる)
d)第二遊撃部隊「志摩艦隊」は、西村艦隊と同じ経路でレイテ湾の敵泊地に突入する
e)基地航空部隊は、栗田艦隊に呼応して敵機動部隊と攻略部隊を攻撃(特攻)する
図39 レイテ沖海戦概要図
一九四四年十月二十四〜二十五日(脚注38)。
日本側の編成は、空母四隻、戦艦九隻を含む三十二隻。対して米軍側の編成は、空母三十五隻、戦艦十二隻を含む七十三隻で、質量ともに敵を圧倒していた。
図42 攻撃を受ける戦艦「武蔵」
攻撃を受けている戦艦武蔵、奥は、護衛に付けられた駆逐艦清霜。
一九四四年十月二十四日。シブヤン海海戦(脚注179)。
図41 沈没しつつある空母「瑞鶴」
開戦時から日本の快進撃を支え続け、日本最高の歴戦艦と評された
空母瑞鶴の撃沈の際、乗組員たちが脱出する前に、降旗する瑞鶴軍艦
旗に対し最敬礼を行う劇的な写真。一九四四年十月二十五日。エンガ
ノ岬沖海戦(脚注179)。
佐藤氏は本海戦をまとめて次のように書き記す。「この作戦は唯一の例外『栗田艦隊』を除いてすべてうまくいった。小沢艦隊の囮(おとり)作戦も成功。西村艦隊、志摩艦隊も敵第七艦隊の戦艦群をつり出した。航空基地からの特別攻撃隊も理想通りの展開となった。
このような多くの艦隊の分進合撃(ぶんしんごうげき)が、広い戦場で理想通りに展開したのは、まるで針の穴を通すような奇跡であった。
ほかの支援部隊の大きな犠牲に支えられて、主隊の栗田艦隊はレイテ湾に殴りこんだ。ハルゼー機動部隊の反復攻撃と潜水艦隊の邀撃に、戦艦『武蔵』と巡洋艦『愛宕』『麻耶』を撃沈され、巡洋艦『高尾』『妙高』を撃破されながらも、敵輸送船団のひしめくレイテ湾に入り込んだのである。
(一九四四年)十月二十五日六時三十七分、サマール島南東海面を警戒中の索敵機からのあわただしい無電が米軍に届いた。
『戦艦四、巡洋艦七、駆逐艦十一よりなる日本艦隊発見。貴部隊北西二〇哩(まいる)、速力二〇ノット』
キンケイド艦隊は大混乱に陥った。この距離は『大和』の主砲の射程圏内ではないか。護送空母の最高速力は十五ノット、搭載機は戦闘機主体である。戦艦や巡洋艦に対する攻撃力はない。護送空母群や輸送船団に、胸のすくような一方的殺戮戦が展開されるはずであった。
だが、栗田艦隊は護送空母『ガンビアベイ』と駆逐艦『ホール』を撃沈しただけで、戦線を離脱してしまった。『栗田艦隊、謎の反転』と言われている」
「敵前逃亡以外に理由は考えられない」「フィリピン島戦で唯一、海軍が重要な役割を果たす可能性のあった乾坤一擲(けんこんいってき)の作戦は、かくて幻に終わるのである」(脚注38)。
図42 被弾炎上するガンビア・ベイ
栗田艦隊は米第七艦隊77TF43に砲撃を加えた。護衛空母
ガンビア・ベイは被弾炎上し沈没する。一九四四年十月二十五
日。サマール沖海戦(脚注179)。
図43 特攻機による米護衛空母轟沈
特攻機の突入により轟沈しつつある米護衛空母セント・ロー。太
平洋戦争の初めての特攻による米艦の撃沈。一九四四年十月二十
五日。サマール沖海戦(脚注179)。
アメリカ軍の圧倒的勝利に終る。日本海軍連合艦隊は組織的戦闘能力を喪失してしまう。佐藤氏は手厳しい。「栗田艦隊」は肝腎な時に戦場を離れてしまった。他の艦隊は自分の身を犠牲にして任務を遂行した。文字通り命を賭けた。だが「栗田艦隊」は敵前逃亡した、と(脚注38、58、180)。
太平洋を逃げ回った連合艦隊
こうして見たように、海戦ではいつもいつも何故か不思議なことが起こった。敵艦隊を打ち破る。しかし、トドメの一撃を食らわせず敵空母を逃げるのに任せる。戦略目標である輸送船団や輸送物資を攻撃しない。敵より戦力が優っていた時期に全力で戦おうとしない。
大東亜戦争全体の中で、外郭要地攻略戦あるいは前方決戦は不要な戦いだった。もっと言えば行ってはいけない場所だった。戦略的価値のない土地だった。
しかし、ガダルカナル島をめぐる戦いだけに限ると、あの戦闘は簡単に勝てたはずだったと佐藤氏は主張する(脚注58)。戦艦と空母の数を比較すると次のようになる。
日本軍:戦艦十二隻、空母十隻
米国軍:戦艦六隻、空母四隻
しかも、米軍空母のうち「サラトガ」「ワスプ」はわが潜水艦の奇跡的殊勲によりそれぞれ大破、撃沈されている。一九四二年十月末の南太平洋海戦で「エンタープライズ」が修理を余儀なくされ、「ホーネット」にも止めが刺される。残りは何と一隻となっている。
敵が奪った「基地を強襲して一時的に使用不能にし、沖合いに戦艦を並べて砲撃すれば、ガダルカナル基地はほとんど一瞬にして粉砕される。敵の主力が出てくれば、それも粉砕すればよい。
しかるに、わが連合艦隊は戦艦も空母もほとんど遊ばせて戦ったのである。要するにガ島戦を将棋に例えれば、飛車、角、金、銀を使わずに負けた“世にも奇妙”な戦闘なのである」と。
レイテ沖海戦における「栗田艦隊、謎の反転」も含めて、要するに、海軍は『艦隊保全主義』という前時代的な妄想にとりつかれていた。まともな戦いなどすることもなかった。広い太平洋でいつも戦場を逃げ回っていた。それだけなのだという。
帝国海軍とは世界で最も臆病な艦隊だった。そう佐藤氏は言い放っている。威勢のいい言葉や「大本営発表」とは全く裏腹だった。ここに「海軍善玉説」を疑う鋭い視点がある。(つづく)
脚注
38)佐藤晃「太平洋に消えた勝機」光文社ペーパーバックス、2003年。
58)佐藤晃「帝国海軍が日本を破滅させた」(下)光文社ペーパーバックス、2006年。
103)米豪遮断作戦「FS作戦」:http://ja.wikipedia.org/wiki/米豪遮断作戦:フィジーとサモアを攻略し、米国と豪州を遮断することで豪州を孤立させ、イギリス連邦から脱落させる作戦を指す。
104)ジェームズ・H・ウッド「『太平洋戦争』は無謀な戦争だったのか」茂木弘道訳、ワック株式会社、2009年。
126)珊瑚海海戦:http://ja.wikipedia.org/wiki/珊瑚海海戦
141)さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策、番外編12、日本滅亡と帝国海軍(Ⅵ)、帝国海軍の暴走
142)さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策、番外編12、日本滅亡と帝国海軍(Ⅶ)、国家総力戦って?
150)攻勢終末点:http://ja.wikipedia.org/wiki/攻撃の限界点
165)さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策、番外編12、日本滅亡と帝国海軍(Ⅴ)、基本戦略は何処
166)さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策、番外編12、日本滅亡と帝国海軍(Ⅷ)、帝国海軍の病理
167)ここに帝国海軍が敵を侮っていた姿が認められる。日本は戦力的には優位に立っていた。しかし全力投球しなかった。米海軍の必死さと好対照である。戦いの帰趨は戦力だけではない。この場合どちらが勝つか明らかだろう。
168)第一次ソロモン海戦:http://ja.wikipedia.org/wiki/第一次ソロモン海戦
169)海戦は日本軍の大勝利に終わった。サボ島北方で集結した「鳥海」第八艦隊司令部では議論が起こっていた。「艦隊はほぼ無傷である。直ちに反転して連合軍輸送船団攻撃に向かうべし」という泊地再突入論があった。「上空援護がない限り、艦上機の攻撃を受ける愚を犯すべきではない」という早期撤退論が対立した。「鳥海」艦長早川幹夫大佐が、「眼前の大輸送船団を放置して帰れば、飛行基地は敵の手に陥って、大変なことになる。司令部は旗艦を他に移して帰れ。鳥海一艦で敵輸送船団を撃滅する」と、特に前者を強く主張した。しかし、大西新蔵参謀長と神重徳先任参謀が後者を進言。結局、後者を三川長官が容れて帰投命令を発したという。
170)第二次ソロモン海戦:http://ja.wikipedia.org/wiki/第二次ソロモン海戦
171)南太平洋海戦:http://ja.wikipedia.org/wiki/南太平洋海戦
172)しかしパイロットの損害は少なく、エンタープライズも修理して以降の作戦に参加できた。対して日本は、艦爆機、艦攻機の航空機損失が激しく、多くのベテランパイロットを失った。ミッドウェーよりも損害が大きく、終戦までその損害を補うことができなかったという。
173)攻撃を命じる際、角田少将の意を受けて空母「隼鷹」の飛行長は次に命令を発した。「敵の位置は、まだ飛行隊の行動範囲外であるが、本艦は全速力で飛行隊を迎えに行く」。この命令は、角田少将の猛将ぶりを示すものとして伝説になっているという。
174)第三次ソロモン海戦:http://ja.wikipedia.org/wiki/第三次ソロモン海戦
175)ネズミ輸送:http://ja.wikipedia.org/wiki/鼠輸送
176)アリ輸送:http://ja.wikipedia.org/wiki/蟻輸送
177)宇垣纏「戦藻録」原書房、1996年。
178)「なあに夜になったら敵は出てきませんよ」と言うような人物が日本海軍参謀の中にいたそうである。南太平洋海戦での勝利の驕りというべきものだった。
179)レイテ沖海戦:http://ja.wikipedia.org/wiki/レイテ沖海戦
180)栗田艦隊なぞの反転に関しては、賛否両論の議論が噴出している。擁護的評価として佐藤和正氏、中間的評価として大岡昇平氏、批判的評価として半藤一利、外山三郎、谷密太郎、原勝洋、菊澤研宗、佐藤大輔、佐藤晃、江戸雄介各氏による著述がある。また作戦自体を否定する評価や岩佐二郎氏による特徴的な評価もある。岩佐氏は大和で偵察員をしていた。著書にて上官の批判は行なっていない。むしろその心情を慮る記述をしている。しかし、「主に心情的な理由から反転せず突入するべきだった」旨を主張している。
栗田健男中将の逡巡について、大岡昇平氏は「司令官に逡巡が現れた原因は、性格、指揮の経験不足に求めるべきではなく、歴史の結果にもとめるべき」「氏の逡巡を批判する者ではない」と述べているという。また、対戦国である英国の首相であったチャーチルは回顧録の中で、栗田艦隊の苦境を挙げた。その後「この戦場と同様の経験をした者だけが、栗田を審判することができる」と述べているという。
附)主な海戦のミニ年表を記す。海戦における(日)は日本海軍の勝利、(米)は米海軍の勝利を表す。規模の大きな海戦は下線で表示している。
一九四一年十二月 真珠湾奇襲攻撃
マレー沖海戦(日)
一九四二年一月 バリクパパン沖海戦(米)
エンドウ沖海戦(日)
二月 ジャワ沖海戦(日)
バリ島沖海戦(日)
ニューギニア沖海戦(米)
スラバヤ沖海戦(日)
三月 バタビア沖海戦(日)
四月 セイロン沖海戦(日)
五月 珊瑚海海戦(日)
六月 ミッドウェー海戦(米)
八月 第一次ソロモン海戦(日)
第二次ソロモン海戦(米)
日本潜水艦攻撃により米空母「サラトガ」大破、「ワスプ」沈没
十月 南太平洋海戦(日)
十一月 第三次ソロモン海戦(米)
ルンガ沖夜戦(日、ただし戦略的には失敗)
一九四三年一月 レンネル島沖海戦(日、戦略的にも成功)
三月 ビスマルク海海戦(米)
ビラ・スタンモーア夜戦(米)
七月 クラ湾夜戦(互角、日本の輸送作戦は成功)
コロンバンガラ島沖夜戦(日、輸送作戦も成功)
八月 ベラ湾夜戦(米、日本の輸送作戦は失敗)
第一次ベララベラ海戦(日本の輸送作戦は成功)
十月 第二次ベララベラ海戦(日本の撤収作戦は成功)
十一月 ブーゲンビル島沖海戦(米)
ブカ島沖夜戦(セント・ジョージ岬沖海戦)(米)
一九四四年六月 マリアナ沖海戦(米)
十月 台湾沖航空戦(米)
レイテ沖海戦(米)
十二月 ミンドロ島沖海戦(日)
一九四五年三月 九州沖航空戦(引分け)
四月 坊ノ岬沖海戦(米)
(10277文字)
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2011年3月5日土曜日