さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策
What should we do now? Explore the history of Japan and the world.
〜 PEKのひとりごと PEK’s soliloquy 〜
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xiii’’’’’’’’’’’’’)番外編12 日本滅亡と帝国海軍(Ⅴ)基本戦略は何処?
大東亜戦争の基本戦略
一九四一年十一月十五日、開戦約三週間前に、日本の戦略大綱が大本営政府連絡会議で決定された。「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」なるもので、以下「基本戦略」と呼ぶ(脚注55)。
内容は以下の通り。
「速やかに極東における米英蘭の根拠を覆滅して自存自衛を確立すると共に更に積極的措置に依り蒋政権の屈服を促進し独伊と提携してまず英の屈服を図り米の戦意を喪失せしむるに勉む」
作戦は以下のように初期侵攻作戦と第二段作戦の二段階からなる。
初期侵攻作戦=第一段作戦
1)極東における米英蘭拠点を覆滅する
2)日、満、支、南方資源地帯を基盤とする自存自衛態勢の確立を図る
第二段作戦
3)援蒋ルートすべてを遮断され孤立した重慶の攻略、または和平を図る(対支大作戦)
4)インド洋で独伊と提携し、英本国をインド、豪州と遮断して脱落を図る(西亜作戦)
5)太平洋方面は長期持久戦略により、米国の反攻を防ぐ(対米作戦正面)
これらの作戦の中には真珠湾奇襲攻撃は入っていない。完全に隠れている。というか、わが国の指導者たちは、太平洋方面を短期決戦ではなく長期持久戦略とした。それが「国の大方針」「基本戦略」であった。
太平洋戦線を短期決戦と考え、真珠湾奇襲攻撃を計画したのは海軍連合艦隊の側である。しかも、ハワイは極東とは決して言えない。「極東における米英蘭拠点」とは、香港、フィリピン、マレー半島、シンガポール、ビルマ、インドネシアのことだろう。
そもそも大東亜戦争(太平洋戦争)は無謀な戦いだった。そう言われている。しかし、真珠湾、ミッドウェー、それ以降の南洋諸島に対する海軍の作戦を除くと、いったいどうであろう。実際に行なわれた上記の初期侵攻作戦全体は一応理にかなっていた。
第二段作戦にも筋が通っている。特に陸軍の南方作戦とそれに続く戦略は、大東亜戦争を終結に導くための合理的なプランと展望が確かに存在している。少なくとも海軍の見通しよりはより確かなものに見える。
カギを握るインド洋
実は、大東亜戦争の最大のカギはインド洋にあった。インド洋こそ決戦場だった。北アフリカにおける英独の攻防、スターリングラードにおける独ソの攻防、残された最後の援蒋ルートを封鎖するための決戦場である(脚注96〜98)。
当時、「連合軍の補給路は、喜望峰から紅海を経由するエジプト戦線と、パキスタン・イラン経由のソ連ルート、インドを経由する「援蒋ルート」の三つがあった。インド洋をおさえると、この三つの補給路を完全に断つことが可能だった」(脚注99)。
図13 連合軍の輸送大動脈インド洋(脚注38より)
連合国側の補給路は、(1)喜望峰から紅海を経由するエジプト戦線、
(2)パキスタン・イラン経由のソ連ルート、インドを経由する「援蒋
ルート」の三つだった。
敵の主力を粉砕するために、敵とガチンコ勝負するのは重要だ。しかし、それと同時に、敵の最大の弱点を叩くことも「常識」である。全世界的に見ると、敵連合軍側最大の弱点とはインド洋のシー・レーンだった。
英海軍はインド洋に展開してはいた。しかし、マレー沖海戦とセイロン沖海戦で破れ、インド洋東側への展開継続を断念(脚注100、101)。アフリカ東岸マダガスカル島まで退避した。英東洋艦隊は日本海軍の敵ではなかった。インド洋の補給線壊滅は決して難しくなかった。
独のロンメル将軍は北アフリカで英軍と激戦中だった(脚注97)。一九四二年六月にはエジプト国境をこえてスエズ運河に迫っていた。
図14 1942年ヨーロッパ戦線(脚注58より)
独ロンメル将軍の進撃がヨーロッパ全土を震撼させていた。六月には
エジプト国境を越えてトブルクを落とし、スエズに迫る勢いだった。
ロンメル将軍は、アルジェリアとモロッコに上陸した米軍とエジプトの英軍による挟み撃ちに合う。それは一九四二年十一月のことである。独はスターリングラードでソ連軍に包囲される。それも同じく十一月である。日本軍が真珠湾攻撃をおこなったのはその一年前。一九四一年十二月だった。
一九四二年の時点で「インド洋にむかい、スエズに迫っていたロンメルと連携をはかり、アラビア海を制圧していれば、イランをとおっていたスターリングラードへの補給路を断つことができ、日独連合軍が英ソ軍を撃退していた可能性が、きわめて、高かった」という(脚注99)。
一九四二年八月三十日、ロンメル軍はエル・アラメインの英軍に総攻撃を開始した。しかし、インド洋経由で膨大な戦力が英軍に補充されていた。インド洋の輸送線(シー・レーン)は完全に機能していた。日本海軍が叩かなかったからである。
九月三日には、米国のM4戦車三百両と対戦車自走砲百両がスエズに陸揚げされる。十月二十三日、逆に英軍のモントゴメリーが攻勢に出る。十一月四日にロンメルは全軍に総退却を命じた。英軍は後方兵站攻防戦、もしくは後方輸送戦に勝利した形となった。
十一月八日に米英連合軍が北アフリカ西部に上陸。かくして、英国とソ連が熱望していた欧州第二戦線が誕生する。ロンメルは東西から挟撃に遭い、スターリングラードではソ連が反転攻勢に出る(脚注38、97、98)。
日本海軍がインド洋を捨てた。そのせいで欧州戦線は米英ソ軍が優勢となってしまった。マクロ的に見ると、結局そう言える。
一九四二年六月、日本海軍連合艦隊はミッドウェー海戦に大敗した(脚注102)。そのために海軍としては、もともと計画していた米国と豪州を分断する「FS作戦」に本腰を入れる気持ちをもはや失っていた(脚注58、103)。にもかかわらず、ガダルカナルのような無価値な島を巡る攻防に釘付けになった。
当初から、日本海軍は「外郭要地攻略作戦」を初期侵攻作戦の中に秘密裏に潜り込ませ、展開しはじめた。そういって勝手に始めた作戦を、途中でやめると自分から言い出すわけに行かない。「外郭要地攻略作戦」そのものが、不要不急の全く無駄な作戦だったのにである。
インド洋を制して英ソ蒋に対する米国の援助を断ち切ること。それがマクロで見た決定的ポイントであった。そうすれば、英国は脱落しソ連はいっそう後退を余儀なくされる。蒋介石政権は和平に応じ、米国の戦意も喪失していったというのである。
もしこのポイントを外さなければ、第二次世界大戦は全く違った経過を辿ることになる。好むと好まざるとにかかわらずである。戦後世界の風景は、今と完全に異なるものとなっただろうと言われる(脚注38、55、58、99)。
新野哲也氏は次のように推論する。帝国海軍は代々ドイツ嫌いだった。三国軍事同盟にも反対していた。独に勝たせるくらいなら米軍とだけ戦って自滅した方が良い。海軍首脳は、そういう意識だったのではないだろうか、と(脚注99)。
佐藤氏は手厳しい。「どうしてあのような愚かな戦闘しかできなかったのであろうか。その責任は、海軍が対米戦争をみずからの縄張りとして固執したことに問わなければならない」と(脚注38)。
要するに海軍首脳は次のように考えていた。海軍には米国との戦いが任されている。太平洋戦線にだけ集中すれば良い。陸軍と徹底して協力するなど考えられない。陸軍が海軍に協力しないからうまくいかないのだ、と。
戦争全体がどうなるのかなど全く眼中になかった。インド洋がポイントだとは、さらさら気付いていなかったに違いない。
太平洋戦線も無謀?
インド洋だけではない。米国の歴史学者ジェームズ・H・ウッド氏は主張する。日本はもっとうまく戦えた。「太平洋戦争」は決して無謀な戦争とは言えないと(脚注104)。
氏はインド洋の重要性には言及していない。太平洋戦線にだけ焦点を当てている。それでも、これまで常識とされていたことに対して総合的な反論を試みている。
a)運命は始めから決まっていたわけではない。
b)日本軍はこれ以上ないタイミングを選んだ。
c)日本軍に勝利の可能性はあった。
d)特に、一九四一年から一九四三年の間に日本がもっと戦略的に戦えば、
「遥かに効果的で、長引く戦争を戦うための土台を築いておくことができたはずだった」
我々は見てきた。そもそも日米は戦う必要がなかった。和平の選択肢もあった。しかし、戦争になってしまった。いったんそうなった以上、勝利を目指すのは国家として当たり前だった。
太平洋戦線は「最悪のシナリオ」の通りになるとは限らなかった。「最悪のシナリオ」とは現実に辿ってしまった「史実」のことだ。ウッド氏はそう主張する。
アジアにおける日本の立場に米国は敵意を持っていた。それは明白だった。米国が日本と戦争をするつもりでいるに違いない。そういう結論は、米国の意図を読み間違えたものでは決してない。
日本の安全保障は決定的に脅かされていた。徹底した経済封鎖をされた。たといABCD各国と和平を保ったとしても、現在の窮状を元に戻す見込みは全くなかった。
一九四一年半ば頃に明らかだった国際情勢は次のようなものだった。開戦を遅らせると、米国は防衛力を飛躍的に増強することになる。だが、今なら海軍力は日本の方がやや優っている。
ソ連の脅威は、日ソ中立条約によってしばらくは抑止されている。独の東部戦線がある限り、もっと長い間ソ連の脅威はこちらに向いて来ない。欧米軍をアジアから追い払うと、頑迷な支那もようやく目を覚ますかもしれない。
対米英開戦の時として、この期をおいて絶好のタイミングは他になかった。ウッド氏は、開戦のタイミングをこのように評価している(脚注104)。
図15 日本軍の最大進出線
(http://ja.wikipedia.org/wiki/第二次世界大戦より)
日本(朝鮮半島、台湾を含む)、満州国、東支那、インド支那、タイ、
比、北ボルネオ、サラワク、英領マラヤ、グアム島、ウェーキ島、蘭印、
ビルマ、ビスマルク諸島、ソロモン諸島など。赤は連合国側。
真珠湾攻撃によって、米国は「裏口」から参戦することができた。とはいえ、大西洋と太平洋の二方面作戦が求められている。見通しはまだほとんど立っていなかった。一九四二年前半は、米国には厭戦気分もあった。まだ憂うつな時期であった。
ミッドウェー海戦には勝利した。とはいえ、一九四二年の日米海軍同士の対決は米国にとって戦術的敗北が多かった。負けない戦いではあっても、持てる戦力ギリギリのところで戦っていた。決して、最終的な勝利を確信できるような状態とは言えなかった。
ウッド氏は述べる。「日本に対して完全な勝利を成し遂げるという大変な任務は、もし日本が異なった戦い方を…したら、はるかに困難なもの、あるいは困難すぎるものになっていたであろう」「太平洋戦争の歴史は、最初からハッキリとその運命が刻印されていたわけではなかった」と(脚注104)。
一九四二年半ばの時点で、日本に勝機をもたらしうる戦略とは何だったのか?ウッド氏は幾つかリストアップしている(脚注104、105)。その中に次のようなものがある。
1「勝利病」を退ける
2 効果的な従深にわたる国家防衛圏を構築する
要するに「前方決戦」を放棄する。敵を打ち破ることだけに固執しない。守りを徹底的に固める、ということである。
図16 幻の絶対国防圏(脚注99より)
一九四三年九月三十日、日本は絶対国防圏を設定する。しかし、すでに
八月二十五日の時点で、海軍は勝手に命令を出していた。絶対国防圏とは
無関係の前方決戦命令だ。マリアナ防衛強化を実質骨抜きにするものだっ
た。海軍は、とにかく陸軍と行動を共にするのがイヤだった。
「従深にわたる国家防衛圏を構築する」とは次にような意味だろう。敵を懐近くにおびき寄せて叩き、痛めつける。多大な犠牲を払って日本に攻め入るのは、決して割に合わない。そのことを敵に思い知らせる。そのための準備を怠りなく完成させる。
短期決戦ではなく長期持久戦とすると言い換えても良い。これは、上述のわが国「基本戦略」(脚注55)にビッタリ当てはまる。特に2)と5)に当てはまる。その二つを再掲する。
2)日、満、支、南方資源地帯を基盤とする自存自衛態勢の確立を図る
5)太平洋方面は長期持久戦略により、米国の反攻を防ぐ(対米作戦正面)
なぜ、これらは実行されなかったのか?それは「帝国海軍が暴走した」からだ。佐藤氏は断言する(脚注38、55、58)。海軍が国家方針に逆らって言うことを聞かなかった。「一撃後に講和する」ことのみを目標に掲げた。その確たる見通しもないままにである。
本来なすべきことを実行しなかった。艦隊に損害が出るのを怖れて逃げ回っていた。もともと当たり前であるべき陸軍との統合作戦は、基本戦略第一段作戦における南方戦線以外では満足に行なわれなかった。
そもそも国家総力戦なるものを、海軍は全く理解できなかった。当時、国家の大方針の一部を海軍首脳部に委ねざるを得なかった。彼らは「短期決戦」「艦隊決戦」しか念頭になかった。そこに、わが国滅亡と悲劇の最大の原因がある。次項から詳述してゆく。(つづく)
脚注
38)佐藤晃「太平洋に消えた勝機」光文社ペーパーバックス、2003年。
55)佐藤晃「帝国海軍が日本を破滅させた」(上)光文社ペーパーバックス、2006年。
58)佐藤晃「帝国海軍が日本を破滅させた」(下)光文社ペーパーバックス、2006年。
96)援蒋ルート:http://ja.wikipedia.org/wiki/援蒋ルート:(ⅰ)香港ルート、(ⅱ)仏印ルート、(ⅲ)ソ連ルート、(ⅳ)ビルマルートの四つを指す。仏印ルートは、一九四〇年日本軍が北部仏印に進駐し遮断された。香港ルートは、初期侵攻作戦により完全に封鎖された。ソ連ルートは、独ソ戦が始まると物資の供給は途絶えた。ビルマルートは、一九四二年に陸路は遮断された。しかし、空路による物資輸送は続いていた。帝国陸軍がビルマから駆逐された一九四五年一月には再開通した。
97)北アフリカにおける英独の攻防:http://ja.wikipedia.org/wiki/北アフリカ戦線:独ロンメル将軍による近東、北アフリカ、スエズ作戦、英国屈服作戦を指す。1940年9月にイタリア軍がエジプトに侵攻したことに始まる。戦いは、次第に、独ロンメル将軍と英モントゴメリー将軍の一騎打ちの様相を呈して来る。
98)スターリングラードにおける独ソの攻防:http://ja.wikipedia.org/wiki/スターリングラード攻防戦
99)新野哲也「日本は勝てる戦争になぜ負けたのか」光人社、2007年。
100)マレー沖海戦:http://ja.wikipedia.org/wiki/マレー沖海戦:一九四一年十二月、英海軍は最新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋艦「レパルス」を日本軍航空勢力だけにより撃沈された。
101)セイロン沖海戦:http://ja.wikipedia.org/wiki/セイロン沖海戦:一九四二年四月、英海軍東洋艦隊と連合艦隊とが東部インド洋セイロン島沖で会敵した。英軍は空母「ハーミーズ」以下重巡洋艦二隻、駆逐艦二隻を撃沈された。
102)ミッドウェー海戦:http://ja.wikipedia.org/wiki/ミッドウェー海戦
103)米豪遮断作戦「FS作戦」:http://ja.wikipedia.org/wiki/米豪遮断作戦:フィジーとサモアを攻略し、米国と豪州を遮断することで豪州を孤立させ、イギリス連邦から脱落させる作戦を指す。
104)ジェームズ・H・ウッド「『太平洋戦争』は無謀な戦争だったのか」茂木弘道訳、ワック株式会社、2009年。
105)ウッド氏は次の十戦略を挙げている。
1「勝利病」を退ける
2 効果的な従深にわたる国家防衛圏を構築する
3 日本商船を護衛する
4 敵の戦略的爆撃を阻止する
5 敵の補給路へ潜水艦攻撃を続ける
6 敵に制空権を握らせない
7 温存艦隊を保持する
8 敵にもっと沖縄型戦闘を強いる
9 米軍の出撃計画を中断させ、遅らせる
10 太平洋戦争の大終局を一九四六年〜一九四七年まで引き延ばす
特に、1〜2は、より良い戦略の根幹的土台をなすもので、他のすべての目標はここから発生する。ウッド氏はこのように述べて、最初の二つの目標の重要性を強調する。
附)対米英戦開始前から一九四二年末までのミニ年表を記す。海戦における(日)は日本海軍の勝利、(米)は米海軍の勝利を表す。規模の大きな海戦は下線で表示している。
<アジア・太平洋戦線> <欧州・北アフリカ戦線>
一九四一年十一月 対米英蘭蒋戦争終末促進の
基本戦略策定
十二月 真珠湾奇襲攻撃
マレー半島上陸
マレー沖海戦(日)
カリマンタン(ボルネオ)島
ジャワ島、スマトラ島上陸
香港占領
一九四二年一月 タイ枢軸国側一員として参戦
北アフリカ戦線で独攻勢
バリクパパン沖海戦(米)
エンドウ沖海戦(日)
二月 ジャワ沖海戦(日)
バリ島沖海戦(日)
ニューギニア沖海戦(米)
スラバヤ沖海戦(日)
シンガポール陥落
豪ポート・ダーウィン空襲
三月 バタビア沖海戦(日)
蘭印制圧
比コレヒドール要塞攻撃
マッカーサー豪へ逃亡
比制圧
ミャンマー制圧
四月 ドーリットル空襲
セイロン沖海戦(日)
マダガスカルの戦い
五月 珊瑚海海戦(日)
ポートモレスビー海路攻略断念
六月 ミッドウェー海戦(米)
独トブルク、エル・アラメイン到達
八月 米軍反攻:ソロモン諸島の
ツラギ島、ガダルカナル島上陸
第一次ソロモン海戦(日)
スターリングラード攻防戦
第二次ソロモン海戦(米)
日本潜水艦攻撃により
米空母サラトガ大破
米空母ワスプ沈没
十月 英エル・アラメイン戦勝利
南太平洋海戦(日)
十一月 米アルジェリア・モロッコ上陸
第三次ソロモン海戦(米)
英トブルク奪回
英ベンガジ奪回
ソ連スターリングラード包囲
(6725文字)
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2011年2月4日金曜日