さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策
What should we do now? Explore the history of Japan and the world.
〜 PEKのひとりごと PEK’s soliloquy 〜
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xiii’’’’’’’’’’’’’)番外編12 日本滅亡と帝国海軍(Ⅶ)国家総力戦って?
通商破壊戦の威力
艦隊決戦以外に重要な海軍の役割とは何か?それは歴史が証明している。それは通商破壊戦である。それは味方のシー・レーン防衛であり、同時に敵の船舶を徹底的に攻撃することである。味方の後方輸送を確実なものとし、敵の後方兵站を叩くのである。
独海軍は第一次世界大戦当時、Uボート潜水艦による英国商船の無制限攻撃を行ない、多大な被害を与えた。そのため「英国は戦争を続行できないところまで追い込まれつつあるように思われた」という(脚注104、114)。通商破壊戦の威力は世界の常識となっていた。
図24 通商破壊戦の例
(http://ja.wikipedia.org/wiki/潜水艦より)
米軍は欧州大西洋戦線での経験をもとに、本格的な通商破壊戦を実行した。初期の頃は魚雷の信頼性に問題はあって効果は目立たなかった。だが、技術的な課題がクリアされると次第に日本船舶の被害が増大する。
特に一九四三年以降、日本の商船、タンカー、軍事物資や兵隊を輸送する船舶は、敵の攻撃に曝され続けた。日本は船舶の三分の二以上を敵潜水艦により沈められた。
佐藤氏は解説する(脚注55)。
「戦争における抵抗力とは、(1)前線にある武力、(2)本国にある武力造成力、(3)その両者を結ぶ輸送力である。第二次世界大戦は、(2)と(3)の要素が大きく増した戦争であるとともに、資源地帯と武力の造成力のある本国を結ぶ輸送力が加わった戦争である。
その輸送線は、ほとんど海上輸送線である。すなわち、第二次世界大戦とは、いわゆる通商破壊戦の比重が大きさを増した戦争なのである」「ドイツは懸命にこの通商破壊戦を戦った。Uボートはもちろん、仮装巡洋艦の他に、豆戦艦と呼ばれる一万トン級の戦艦まで、通商破壊戦に投入した」
「しかるにここに信じられないことが興っている。大海軍国の日本が、『通商破壊戦』をまったく顧みなかったことである」と。
不採用だった通商破壊戦
日本海軍が米国との通商破壊戦に本腰を入れた形跡はない(脚注115)。米国の商船、タンカー、軍事物資と兵員を輸送する船舶は、東太平洋上の長い長い輸送線をフリーパスで安全に航行できた。
「驚くべきことに、日本の潜水艦部隊は太平洋において…アメリカの商船に対して本気で継続的攻撃を試みたことは一度もなかった」「アメリカ軍は…日本軍の潜水艦がそれを利用しようとしないこと(引用者による脚注116)を訝(いぶか)しく思っていた」と前述のウッド氏も書いている(脚注104)。
氏はさらに続ける。「チャールズ・ロックウッド海軍中将は、日本に対する米軍潜水艦攻撃の立案指揮者であったが、一九四四年十月に、サンフランシスコとハワイの中間あたりで起きた日本軍潜水艦による一隻のアメリカ商船の撃沈について次のように述べている。
『我が国領海内であり、その航路に関してはほぼ三年間何事もなかった後での商船攻撃は、実に驚きであった。それによって引き起こされた混乱や、以降の船舶交通の変更等を考えると、敵が同様の攻撃をもっとしかけておれば、どれほど我々を困らせることができていたかは、明白である』」と(脚注104、117)。
図25 日本海上交通の変遷図(脚注104)
薄い実線は、一九四三年一月から一九四四年七月頃までに使用不能となった
航路。濃い実線は、一九四四年八月頃機能していた航路。
開戦当時から一年間だけをとっても、日本海軍は通商破壊戦をする能力を有していた。開戦当時四十二艦だった日本の伊号潜水艦は、一九四二年には十三艦追加された。その数は米国本土と太平洋の前線を結ぶシー・レーンを叩くには十分だった。
伊号潜水艦にも弱点はあった。しかしその作戦実行能力は非常に高かった。航続時間は長く、浮上航行速度は速く、誤作動のない高性能魚雷を装備し、乗組員の資質も戦意も非常に高度だった。
ウッド氏は次のようにも書く。「太平洋で使われた輸送船はどれひとつをとっても極めて貴重な、掛け替えのない資産だった」「わずかの貨物船損失でさえ、大きくアメリカ軍の戦力増強を妨げていたであろう」
「一九四二年八月の時点でも、米軍戦力はガダルカナル島に海兵隊一個師団の一部を維持するのでさえ苦労していた」「魚雷数発が首尾よく命中すれば、歩兵一連隊を乗せた輸送船、ハイオクタンの航空機燃料を満載したタンカー、土木工事用の備品や兵隊をいっぱい積んだ船を沈没」させ、米軍の作戦遂行を困難なものにしたであろう、と(脚注104)。
日本海軍軍令部と連合艦隊は、艦隊決戦しか念頭になかった。第六艦隊すなわち潜水艦部隊に課せられた役割は、全面的な敵艦攻撃への専念であり、艦隊作戦に完全に従属するものであった(脚注118)。
帝国海軍首脳部が頑迷にこだわったのはただ一つである。それは、艦隊決戦での戦術的な勝利に第六艦隊を貢献させることであった。艦隊結成しか思い浮かべることのできない彼らに、第六艦隊を戦略的に運用し戦局を有利に導こうというような「発想」は全くできなかった(脚注119)。
杜撰な後方兵站攻防
帝国海軍が味方の商船、軍事物資と兵員の輸送船舶を「本気」で守った形跡もない。ただし、初期侵攻作戦において上陸部隊を守った海戦もいくつかあった。マレー沖海戦、エンドウ沖海戦、ジャワ沖海戦、バリ島沖海戦、スラバヤ沖海戦、バタビア沖海戦などである(脚注120〜125)。
しかし、一九四二年五月の珊瑚海海戦とそれ以降は、腰が引けて戦略的な目的を達成することができなかった(脚注38、58、126)。ソロモン諸島のガダルカナル島をめぐる戦闘では、中途半端に戦っては目的を果たさずに退却する形を繰返した(脚注38、58、127)。
もともとソロモン諸島への展開は外郭要地攻略戦といって海軍が勝手に拡大した戦線である。その奥深くに派遣されたのは陸軍将兵たちだった。
海軍連合艦隊はソロモン諸島近海のいくつかの海戦で米軍の抵抗に遭う(脚注128)。すると、それ以降は本格的な戦力は温存し、陸軍将兵と戦略物資の本格的な護衛を拒否。わずかに駆逐艦が人員輸送に使われただけだった。
これは夜中にこそこそと動くという意味で自嘲気味に「ねずみ輸送」と呼ばれた(脚注58)。駆逐艦は対空能力が弱い。当然、昼は敵航空機の攻撃対象となった。
前線に軍事物資と食糧を送り届けるのは決死の覚悟だった。「あり輸送」と呼ばれる、軽火器しか持たない舟艇輸送が用いられた(脚注58)。敵空軍に攻撃されて大半が沈み、沖合いの敵艦によって、残りの船の陸揚げ資材の多くは粉砕された。
ガダルカナルに向かう米国の輸送船団を日本海軍は攻撃しなかったこともある。海戦に勝利していたにもかかわらずである(脚注129)。フィリピンのレイテ湾でも、上陸部隊に艦砲射撃を食らわせなかった(脚注130)。どちらも絶好のチャンスだったが、帝国海軍は何もせず反転している。
ここにも艦隊決戦至上主義が現れている。海軍指揮官たちには艦隊決戦しか興味がなかった。本格的な艦隊決戦のために味方の戦力を温存した。本格的な艦隊決戦以外の戦場で自分の艦船が損傷するのを怖れたのである(脚注131)。要するに臆病だった、と佐藤氏は断じる(脚注38、58)。
敵部隊は「艦隊決戦以外の戦場」に赴く。味方である陸軍や海軍陸戦隊を確実に殺戮する筈である。そんな危険な敵部隊を見逃すのである。臆病から出た利敵行為と断言して良い。
反対に米軍は、たとい海戦で戦術的に日本海軍に敗北した時であっても、戦略的に味方上陸部隊を守り抜いた。敵上陸部隊に容赦ない攻撃を仕掛けて撃滅した。
そして、徹底して日本の後方兵站線を叩いた。「東京急行」と揶揄しながら、毎晩のように行き来する日本の駆逐艦を多数沈めた(脚注58)。兵士たちも軍事物資も食糧も海の藻くずと消えた。前線で兵士たちを待ち受けているのは「飢餓」である。
佐藤氏は書く(脚注58)。「ニューギニア北岸の戦闘こそ、まさに通商破壊戦を知る海軍に支援された軍隊と、通商破壊戦を知らない海軍に見捨てられた軍隊の戦いであった」。
さらに次のようにも記す(脚注38)。「東ニューギニアに投入された16万人のうち、その15万人が生命を犠牲にした。うち10万人以上が餓死である。あまりに悲しすぎる」。
国家総力戦の概念欠如
当時、大成功と称えられた真珠湾攻撃も、行き当たりばったりの戦闘であった(脚注108)。よく言われている通り、主力空母を取り逃がした。第三次攻撃を断行しなかった。石油タンクやドックなど港湾施設を徹底破壊しなかった、等々。
参戦反対だった米国の世論を一挙に変えてしまった。日本への憎悪をさらにかき立てて最悪の影響を米国に与えた。米国が欧州戦線に裏口から参入する格好の口実を提供した、等々。
当時の英国首相ウィンストン・チャーチルも「真珠湾攻撃のニュースを聞いて戦争の勝利を確信したと回想」したほどだったという(脚注132)。
何よりも日本の「基本戦略」である「自存自衛態勢確立」「対支大作戦」「西亜作戦」「対米長期持久戦略」に反していた(脚注58)。戦略的重要度からすると、対米戦略は長期持久戦略であるべきだった。
その対米長期持久戦略を、海軍指導者の一人にすぎない連合艦隊司令長官が、見通しのない「短期決戦後-講和戦略」に変更してしまった。ここから日本にとって災難が始まる。米国にとっては付け入るべき戦略上の敵の弱点となる。
陸軍との統合作戦で、海軍がインド洋作戦に従事し制海権を握って通商破壊戦を行なう。これが、国家の「基本戦略」に奉仕するという本来あるべき姿だった筈だ。
太平洋方面は、長期持久戦戦略のため、ビアク島、ペリリュー島、硫黄島での戦いのように島全体を要塞化するべきだった(脚注133〜136)。海軍は敵の後方兵站を叩き、要塞化した島々の守備隊を助けるという至極当たり前の共同作戦を展開すれば良かったのである。
図26 ペリリュー島の記念碑(脚注134)
「諸国から訪れる旅人たちよ この島を守るために日本軍人
がいかに勇敢な愛国心をもって戦い そして玉砕したかを
伝えられよ 米太平洋艦隊司令長官 C.W.ニミッツ」
そもそも海軍関係者は己の分をわきまえ、「自存自衛態勢確立」「対支大作戦」「西亜作戦」「対米長期持久戦略」という国家の「基本戦略」に忠実であるべきだった。仕えるべきは、決して己のメンツ、プライド、海軍省の利益ではなかったのだ。
運命の五分間とか言われているが、ミッドウェー海戦の惨敗は当然だった(脚注102、137、138)。この戦いは、艦隊決戦に囚われていた帝国海軍連合艦隊が、その決戦においてすら敗れ去ったことを意味している。戦術も戦略もない海軍が「暴走」して招いた最悪の結末の一つである。
図27 空母「加賀」の炎上
(http://f.hatena.ne.jp/Erwin-Iwao-Specter/20100524191517)
図28 空母「飛龍」の炎上
(脚注102より)
図29 空母「エンタープライズ」
に並ぶTBD雷撃機デバステイター
(脚注102より)
海軍は国家として最初に立てた「基本戦略」に忠実であるべきだった。しかし、そういった謙虚さは微塵も持っていなかった。
真珠湾やミッドウェーは山本五十六の「暴走」。前方決戦、外郭要地攻略戦と称するラバウル、ガダルカナルへの展開も戦略的に重要な意味を持たない地域を巡る戦いだった。そもそも米豪遮断作戦「FS作戦」は、後方兵站を全く考えない「背筋の凍るような作戦計画」だった(脚注58、103)。
帝国海軍首脳は、勝手に「暴走」し、勝手に敗北した。勝手に戦線を拡大し、陸軍を巻き込んで陸軍将兵を送り込んだ。後方兵站を守らず、敵の上陸部隊を殲滅せずに見逃した。大型の戦艦を多数温存し、味方を武器の不足と飢餓に苦しめたのである。
そこで死をとげた父祖たちに、私たちはどんな言葉をかけられるだろう。戦争を勝利に導く能力を欠いた指導者たちのもとで苦しみ、悲惨な目にあった。当時の将兵たちに同情の念を禁じ得ない。無念と憤りを覚えてならない。
要するに、暴走した海軍には国家総力戦の概念が全く欠如していた。戦争のグランド・デザインも描けないような集団に、当時の日本は自分たちの命運をあずけてしまった。これが悲劇でなくて何であろう。(つづく)
脚注
38)佐藤晃「太平洋に消えた勝機」光文社ペーパーバックス、2003年。
55)佐藤晃「帝国海軍が日本を破滅させた」(上)光文社ペーパーバックス、2006年。
58)佐藤晃「帝国海軍が日本を破滅させた」(下)光文社ペーパーバックス、2006年。
99)新野哲也「日本は勝てる戦争になぜ負けたのか」光人社、2007年。
102)ミッドウェー海戦:http://ja.wikipedia.org/wiki/ミッドウェー海戦
103)米豪遮断作戦「FS作戦」:http://ja.wikipedia.org/wiki/米豪遮断作戦:フィジーとサモアを攻略し、米国と豪州を遮断することで豪州を孤立させ、イギリス連邦から脱落させる作戦を指す。
104)ジェームズ・H・ウッド「『太平洋戦争』は無謀な戦争だったのか」茂木弘道訳、ワック株式会社、2009年。
108)真珠湾奇襲攻撃:http://ja.wikipedia.org/wiki/真珠湾攻撃
114)潜水艦による通商破壊戦に対しては護送船団方式が有効であることも、すでに第一次世界大戦の結果として証明されていた。英国によって構築された護衛された輸送船団システムは、Uボートの脅威が対策可能な程度にまで軽減されたという(ジェームズ・H・ウッド「『太平洋戦争』は無謀な戦争だったのか」茂木弘道訳、2009年)。
115)一九四三年秋以降、輸送船を守ろうと動きも出始めた。しかしすべては遅すぎ、少なすぎた。
116)日本軍の潜水艦がそれを利用しようとしないことを:「日本の戦争遂行に重大な貢献をする機会」「通商破壊戦の好機」を指す。
117)チャールズ・A・ロックウッド「敵のすべてを撃沈せよ 太平洋における潜水艦戦争」E・P・ダットン社、ニューヨーク、1951年。
118)潜水艦部隊に課せられた役割は、全面的な敵艦攻撃への専念…であった:確かに、第二次ソロモン海戦後の米空母「ワスプ」撃沈、「サラトガ」大破などという大きな戦果もあった。しかし、米軍の対潜水艦攻撃(ASW)または米潜水艦により、戦争に投入された日本の潜水艦百五十一艦のうち百艦が撃沈された。自艦が撃沈されるまでにたった二隻であっても敵商船を沈めることができていれば「十分に価値のある作戦」だっただろうと言われる(ジェームズ・H・ウッド「『太平洋戦争』は無謀な戦争だったのか」茂木弘道訳、ワック株式会社、2009年)。
また、潜水艦同士の戦いについても日本の戦略的発想のなさが指摘されている。全戦争期間中、日本の潜水艦は米軍潜水艦をたった一隻しか沈めていない。しかし、米潜水艦は二十五隻の日本軍潜水艦を沈めた。米潜水艦は一隻あたり平均して六隻の日本商船を沈めている。日本軍潜水艦が米軍潜水艦を一隻沈めるだけで、約三万トンの日本船舶を救っていた計算になる。米軍潜水艦が当時の日本支配地域に接近するには、北東方面を除くと、比較的狭い海峡や内海を横断する必要があった。アジア大陸沿岸の浅い海域、マレーシア、インドシナ、東インド諸島、ボルネオ、フィリピンの間の比較的狭い水路のことである。こういったところで敵潜水艦を待ち伏せし排除していれば大きな貢献をしただろう。伊号潜水艦より小型で敏捷性に優れていた呂号潜水艦三十八艦は、この仕事にうってつけだ。対潜水艦攻撃(ASW)に従事する哨戒艇や航空機にとって強力な増援になっていたと予想される(ジェームズ・H・ウッド「『太平洋戦争』は無謀な戦争だったのか」茂木弘道訳、ワック株式会社、2009年)。
119)戦略的に第六艦隊を運用し戦局を有利に導く発想:日本側はこの分野で戦略的取組みを全くしなかった。それ故、敵の商船はほとんど脅威を覚えずに広い太平洋を安全に自由に行き来できた。兵隊も重火器も戦略物資も食糧も、すべて前線に届けることができた。
独はUボートを一千艦以上投入したが、連合軍側による護送船団方式導入と対潜水艦攻撃(ASW)により、結局この分野で勝利は出来なかった。日本も通商破壊戦で完全な勝利を得ることができなかっただろう。しかし、戦争においてはタイミングがすべてである。一番肝心なのは「大掛かりな、継続的船舶の破壊を期待することよりもむしろ、一九四二年に連合軍船舶に対して攻撃作戦に着手するという、タイムリーは脅威」で、「日本軍による潜水艦攻撃は、その実際の物質的結果に数倍するほどの心理的効果を生む」ことだった。「一年以内で、日本の長距離遠征攻撃隊は、ドイツ軍Uボートと同じ運命を辿ることになっただろう。しかし、その間に、日本軍は彼らが最も必要としたものを手に入れたはずだ。南太平洋における連合軍の攻勢作戦を遅らせることと、帝国国防圏の中に従深に配備された防御作戦基地を構築するための時間である」と指摘されている(ジェームズ・H・ウッド「『太平洋戦争』は無謀な戦争だったのか」茂木弘道訳、ワック株式会社、2009年)。
ウッド氏は、最も優れた歴史書の著者たちと評して次のような意見も紹介している。「真珠湾攻撃の直後、日本海軍は、すべての大洋航行型と艦隊型潜水間をハワイ海域と米国本土西海岸沿岸に集中させるべきであった。大型潜水艦は、順番に交代で作戦従事し、これらの二つの交戦偵察地域(ハワイと米国西海岸)は、少なくとも一九四二年いっぱいは偵察行動を維持すべきであった。つまり、作戦従事可能な潜水艦の三分の一は偵察任務につき、三分の一は偵察海域へ航行中であり、三分の一は、補給や修理中とすべきであった。これら二つの偵察地域で展開する潜水艦は、西方へ急ぎ派遣される米軍増援艦隊の進行を効果的に邪魔することができたであろうし、そして少なくとも一九四二年の初めの頃には、日本軍潜水艦は、真珠湾攻撃で被った損傷を本格的に修理するため、本国へ帰国途上の米軍艦を攻撃するのに理想的な場所にいたはずであった(カール・ボイド、吉田アキヒト「日本軍潜水艦部隊と第二次世界大戦」海軍大学出版、1995年)。
読んでみるとしごくまともな考えに思える。素人の私たちから見ても、なぜ帝国海軍がこのような戦法をとらなかったのか不思議でならない。
120)マレー沖海戦:http://ja.wikipedia.org/wiki/マレー沖海戦
121)エンドウ沖海戦:http://ja.wikipedia.org/wiki/エンドウ沖海戦
122)ジャワ沖海戦:http://ja.wikipedia.org/wiki/ジャワ沖海戦
123)バリ島沖海戦:http://ja.wikipedia.org/wiki/バリ島沖海戦
124)スラバヤ沖海戦:http://ja.wikipedia.org/wiki/スラバヤ沖海戦
125)バダビア沖海戦:http://ja.wikipedia.org/wiki/バダビア沖海戦
126)珊瑚海海戦:http://ja.wikipedia.org/wiki/珊瑚海海戦
127)ガダルカナル島をめぐる戦闘:http://ja.wikipedia.org/wiki/ガダルカナル島の戦い
128)いくつかの海戦で米軍の抵抗に遭う:第一次から第三次のソロモン海戦、南太平洋海戦、ルンガ沖夜戦などのこと。特にルンガ沖海戦以降、帝国海軍は本格的な護衛任務を拒否するようになる。
129)ガダルカナルに向かう米国の輸送船団を日本海軍は攻撃しなかった…海戦に勝利していたにもかかわらず:第一次ソロモン海戦のこと、http://ja.wikipedia.org/wiki/第一次ソロモン海戦:ミカンを取りに行って皮だけ持って返ってきたと嘆息された情けない有様だった。
130)フィリピンのレイテ湾でも:http://ja.wikipedia.org/wiki/レイテ沖海戦:レイテ島への米上陸部隊と上陸支援艦隊を殲滅する絶好の機会だったのに、栗田艦隊が「謎の反転」と呼ばれる不可解な行動に出て、米軍に一矢を報いる機会を失った。
131)本格的な艦隊決戦以外の戦場で自分の艦船が損傷するのを怖れた:ただし、いわゆる「ネズミ輸送」の駆逐艦部隊は勇敢に奮戦した。いくつかの夜戦に勝利し輸送任務を成功させている。クラ湾夜戦、コロンバンガラ島沖夜戦、第一次ベララベラ海戦、第二次ベララベラ海戦など。佐藤氏が指摘したいのは、もっと大きな戦力を有していながら本格的に戦わずにトラック島や瀬戸内海で「休眠」していた連合艦隊主力のことである。当時は、連合艦隊主力は惰眠を貪り、もっぱらラバウル航空隊がソロモン諸島に飛行機を飛ばして戦うというアウトレンジ戦法と呼ばれる戦い方をしていた。その航空戦力も敵のレーダー網にかかって迎撃隊にほとんどが撃ち落とされた。全く戦果を挙げることができなかった。貴重な搭乗員を多数失い、消耗戦を強いられたのである。
132)ウィンストン・チャーチル「第二次世界大戦」佐藤亮一訳、河出文庫、河出書房新社、2001年。
133)ビアク島:http://ja.wikipedia.org/wiki/ビアク島の戦い
134)ペリリュー島:http://ja.wikipedia.org/wiki/ペリリューの戦い
135)硫黄島:http://ja.wikipedia.org/wiki/硫黄島の戦い
136)これらの島嶼における戦いで、日本軍現地司令官は海岸線から離れた「拠点式縦深地下陣地」の構築を部下に命じ敵の上陸に備えた。他の多くの島々では、東京の参謀本部から「水際撃滅作戦」の執拗な作戦指導があった。また、敵上陸直前に守備隊が派遣増強されて陣地構築が間に合わない部隊がほとんどだった。しかし、ビアク、ペリリュー、硫黄島ではその誤った作戦指導の影響なく、あるいは愚かな指導をはね返し、独自の判断で「善戦」することになる。
例えばペリリュー島は、米軍海兵たちが落とすのに2〜3日とかからないと甘く考えた。だが実際は2ヶ月以上かかった。守備隊戦死者10695人に対し、米軍死傷者は8804人。最後まで抵抗した山口少尉以下の残兵34人が降伏したのは、戦後の1947年4月21日だったそうである。米国のニミッツ提督はベリリュー島守備隊の健闘を称える碑を建てて「この島を占領した戦略的効果が、この島で失った犠牲に値するかどうか疑わしい」と述べたという(佐藤晃「帝国海軍が日本を破滅させた」(下)光文社ペーパーバックス、2006年による)。
ビアク島では、守備隊戦死戦病死者合計10000人以上に対し、米軍死傷者戦病者合計10148人。硫黄島では、守備隊戦死者20129人に対し、米軍死傷者28686人であった。
後の朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラク戦争、アフガン戦争などで明らかなように、米国の弱点は戦死者、戦傷者の数と戦争の長期化である。米国の世論は厭戦へと傾く。太平洋戦線当時の日本も、自国領土に縦深的な防御陣地を構築し、敵上陸兵に圧倒的な犠牲を長期間にわたって強いることができれば、戦況は史実通りの最悪のケースを辿らずに済んだだろう。もっと違った形で講和を結べたかもしれないのだ。残念ながら、東京の陸軍参謀本部が出した作戦は水際殲滅作戦。防衛軍の増強も陣地構築には間に合わないほど遅く、米軍上陸の数日前ということも多かったという。絶対的国防圏など単なる作文に過ぎなかった。戦場を知らない陸軍と海軍の官僚がわざわざ負けるために立てた構想、戦略、戦術によって、日本の滅亡を早めたとしか思えないほどである。
137)運命の五分間とか言われているが:淵田美津雄、奥宮正武共著「ミッドウェー」1951年の筋書きが、海軍の公刊戦史のような位置を与えられているという。その中で語られているのが「運命の五分間」である。もう五分間の余裕があったら味方の飛行機を発進させ、敵機動部隊を殲滅できただろう。まことに不運な敗戦だった、というものだ。
午前1時30分:第一次攻撃隊108機発艦
午前3時15分:ミッドウェー爆撃
午前4時15分:第二次攻撃を決意し艦船攻撃用装備を地上攻撃用装備に転換を命令
午前5時20分:敵索機より「敵空母発見」の打電。山口多聞第二航空戦隊長から南雲司令部に「直ちに発進の要あり」と具申
午前5時40分:南雲長官は山口案を却下、第一次攻撃隊収容と第二次攻撃隊兵装転換。地上攻撃用装備から艦船攻撃用装備への再転換を決定し命令
午前7時20分:発進準備完了。空母四隻の甲板にはゼロ戦、艦爆、艦攻が並んでいた
午前7時20分:発艦始め!の命令あるも、その瞬間、敵急降下爆撃機が頭上から襲来。火薬、燃料を満載した飛行機と装備転換作業の残りの爆弾が誘爆。空母は炎の塊となる
この戦史には、作家の澤地久枝氏によるものを初めとして、次々と疑問が投げかけられたという。詳細は省略するが、南雲艦隊で死亡した幹部は山口多聞長官と「飛龍」の加来艦長だけで皆生還しているのに、ミッドウェーの実体が霧の中にあるのは不思議だとしている。佐藤氏も言い放つ。「やはり運命の五分間は胡散(うさん)臭い」と。
138)ミッドウェー海戦の惨敗は当然だった:当時、米軍航空戦力は日本に比べて搭乗員の練度という点でも非常に劣っていた。航空母艦も突貫工事で「ヨークタウン」を修理して合計三隻にしたとはいえ、連合艦隊機動部隊の方が数では優勢であった。
しかし、ミッドウェー島を攻略しても、補給兵站は大変だし維持するのも難しい。戦略的価値もない。本作戦計画が通らなければ山本は辞任すると主張するなど、ハワイの二番煎じまでして軍令部と参謀本部を脅した。首脳部みんなの反対を押し切って、山本が無理やりに通した作戦である。その割には、アリューシャン列島攻撃や主力戦艦部隊をミッドウェーの後方に配置し、ミッドウェー島攻撃と米軍機動部隊の探索と攻撃など、連合艦隊は力を分散投入しすぎている。暗号は米軍側に解読されていた。とはいえ、米軍が劣勢であっても持てる全戦力をぶつけたのに比べて、日本軍戦力は分散されすぎていた。連合艦隊の戦術はあまりにも稚拙であった。主力戦艦部隊ははるか後方で機動部隊が叩かれるのを見守るだけ。虎の子の第一、第二航空隊と空母四隻という機動部隊を失ったのは当然と言えば当然極まりない。愚かな作戦だった。山本は愚将にすぎない。
しかも、ミッドウェー海戦のあと誰一人責任をとらない。責任をとったと言えるのは、本来責任を取る必要のない空母「飛龍」の艦長山口多聞少将だった。彼は加来止男艦長とともに、自艦の沈没と運命を共にした。山口は「現状況は一分一秒を争う。空襲隊を犠牲にしてでも敵空母攻撃隊の発進準備を急ぎ用意でき次第攻撃隊を出すべき」と南雲中将に具申し退けられた。山口は友軍三空母を失った後、搭乗する空母「飛龍」から独断で即時攻撃を指示して攻撃隊を出撃させた。多くの犠牲を払いながらも見事、敵空母「ヨークタウン」に一矢を報いている。
何とも憤懣を覚えざるを得ない話ではないだろうか。
附)対米英戦開始前から一九四二年末までのミニ年表を記す。その期間以外でも、本文で触れた戦いは含めてある。海戦における(日)は日本海軍の勝利、(米)は米海軍の勝利を表す。規模の大きな海戦は下線で表示している。
一九四一年十一月 対米英蘭蒋戦争終末促進の
基本戦略策定
十二月 真珠湾奇襲攻撃
マレー半島上陸
マレー沖海戦(日)
カリマンタン(ボルネオ)島
ジャワ島、スマトラ島上陸
香港占領
一九四二年一月 タイ枢軸国側一員として参戦
バリクパパン沖海戦(米)
エンドウ沖海戦(日)
二月 ジャワ沖海戦(日)
バリ島沖海戦(日)
ニューギニア沖海戦(米)
スラバヤ沖海戦(日)
シンガポール陥落
豪ポート・ダーウィン空襲
三月 バタビア沖海戦(日)
蘭印制圧
比コレヒドール要塞攻撃
マッカーサー豪へ逃亡
比制圧
ミャンマー制圧
四月 ドーリットル空襲
セイロン沖海戦(日)
マダガスカルの戦い
五月 珊瑚海海戦(日)
ポートモレスビー海路攻略断念
六月 ミッドウェー海戦(米)
八月 米軍反攻:ソロモン諸島の
ツラギ島、ガダルカナル島上陸
第一次ソロモン海戦(日)
第二次ソロモン海戦(米)
日本潜水艦攻撃により
米空母サラトガ大破
米空母ワスプ沈没
十月 南太平洋海戦(日)
十一月 第三次ソロモン海戦(米)
ルンガ沖夜戦(日、ただし戦略的には失敗)
一九四三年一月 レンネル島沖海戦(日)
二月 ガダルカナル島から撤退
三月 ビスマルク海海戦(米)
ビラ・スタンモーア夜戦(米)
七月 クラ湾夜戦(互角、日本の輸送作戦は成功)
コロンバンガラ島沖夜戦(日、輸送作戦も成功)
八月 ベラ湾夜戦(米、日本の輸送作戦は失敗)
第一次ベララベラ海戦(日本の輸送作戦は成功)
十月 第二次ベララベラ海戦(日本の撤収作戦は成功)
十一月 ブーゲンビル島沖海戦(米)
ブカ島沖夜戦(セント・ジョージ岬沖海戦)(米)
一九四四年五〜八月 ビアク島の戦い
九〜十一月 ペリリューの戦い
一九四五年二〜三月 硫黄島の戦い
(11546文字)
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2011年2月19日土曜日