さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策
What should we do now? Explore the history of Japan and the world.
〜 PEKのひとりごと PEK’s soliloquy 〜
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xiii’’’’’’’’’’’’’)番外編12 日本滅亡と帝国海軍(Ⅷ)帝国海軍の病理
前方決戦 艦隊決戦 勝利病
当時、日本海軍の基本方針は、明治四十年来の「近海迎撃」「漸減邀撃(ぜんげんようげき)作戦」「艦隊決戦」だったという。
相手が米艦隊なら、まず日本の委任統治領だった赤道以北のマリアナ諸島やパラオなどを守る(脚注139、140)。遠路はるばるやってくるところで漸次ダメージを与えて力を殺ぐ。最後に日本近海で艦隊決戦して勝利するというものであった。
「戦略目的は、本土と海路の防衛である」(脚注99)。
しかし山本五十六は、基本方針の「近海迎撃」「漸減邀撃」を百八十度転換する。前方決戦である。守ろうとしたのは「本土と海路」ではない。自分の考えは正しいという主張と連合艦隊のメンツであったろう。
両洋艦隊法の効果が現れる前に何とかしたい。米国太平洋艦隊大幅増強がはかられる前に敵艦隊と機動部隊を叩き潰したい。最終的勝利の確たる目当てはないが、帝国海軍の誇る機動部隊を使って敵戦艦と空母を確実に沈める。真珠湾奇襲は前方決戦の始まりである。
前方作戦で敵の艦隊を一気に撃滅することが「本土と海路」を守ることになる主張した。しかし本気で「本土と海路」を守ろうとするなら、敵の後方兵站を叩いて味方の後方兵站を徹底して守る通商破壊戦に挑戦する必要がある。
前述したように、それら地味な戦いに海軍は全く興味がなかった。関心はただただ「艦隊決戦」にあった(脚注141、142)。あくまで「攻勢、攻勢」「勝利、勝利」「連戦連勝」を希求してやまなかった。ウッド氏は「勝利病」、佐藤氏は「戦勝病」と表現している(脚注58、104)。
挙国一致態勢の完全な崩壊
初期進行作戦終了後の戦争指導計画はまだ決定されていなかった。一九四二年二月から三月、作戦指導計画研究が陸海軍統帥部で練られる。意見は陸海軍で真っ二つに別れた。
海軍側:「追撃段階である」「真珠湾で敵の太平洋艦隊の主力を壊滅した今、戦いは追撃段階にある。この機を逸せず一気に敵を壊滅すべきである」
陸軍側:「追撃段階とは米軍を軽視するもはななだしい。太平洋方面は堅固な防塁を築き、米国が反攻に転じる昭和十八年後半までに、蒋介石政権の屈服と独伊と提携する『西亜作戦』により英国の屈服を早めるべきである」
お互いに妥協しない。その結果としての作文「今後採るべき戦争指導の大綱」が東條英機首相に届けられる。「英を屈服し米の戦意を喪失せしむるため、引き続き既得の戦果を拡充して、長期不敗の態勢を整えつつ、機を見て積極的の方策を講ず」という内容だった。
大本営政府連絡会議では異論が噴出。東條英機首相も「これでは攻勢戦略か守勢戦略か意味が通じない」と意見を述べた。「しかし、統帥権独立のわが国では、作戦に関する政府側の意見は通らないことになっている。
作文としてはまとまっているが、陸海軍の根本思想はまったくまとまっていない。南方占領地からインド方面を担任する陸軍は、長期不敗戦略に重点を置き、太平洋方面を担任する海軍は積極的な方策のみしか念頭にない。
すなわち、太平洋方面積極戦略が事実上決定したことになる」「この大綱が決まる一ヶ月も前に、もっとも飛び出してはいけない南東方面(引用者による脚注143)ですでに推進されつつあった」
「初期進行作戦を理想的に戦ったわが国は、この段階で挙国一致態勢を完全に喪失し、国家的な基本戦略方針も混乱させてしまったのである」(脚注58)。
攻勢終末点を超える
第一次大戦で日本の手に渡ったカロリン諸島のトラック環礁は連合艦隊の基地となっていた(脚注144)。
戦端が開かれると、トラック島防衛のため外郭地としてビスマルク諸島のラバウルが欲しくなった(脚注145)。さらにラバウル防衛のために、東ニューギニアとソロモン諸島に行きたくなった(脚注146、147)。ソロモンにはガダルカナル島がある(脚注148)。
図30 南太平洋の島々(脚注58より)
ラバウルもガダルカナルもジャングルである。資源もない。南方作戦で欧米列強を駆逐して手に入れた主要地域のような戦略的価値などない。ましてインド洋の重要性には比べようがない。南西太平洋の島々、すなわち南東方面への展開はそれほど無意味だったのだ。
このラバウル、東ニューギニアへの侵攻は陸軍の猛反対にあっている。陸軍の反対を押し切って実行したのが、井上成美を中心とする南洋部隊だ(脚注149)。
攻勢終末点という用語がある(脚注150)。「このような場所まで軍隊を出しては負けるという地域」のことである。
作戦を立てる際に、「戦力は根拠地と戦場の距離の自乗に反比例する」という鉄則があるのだそうだ。
戦場が根拠地から離れるほど戦力が減る。敵と戦うなら近くに戦場を選び迎え撃つのが常識。戦略的な戦場選択権は防御側にある。攻める側は守る側の三倍の戦力を必要とする。これらが鉄則だというわけである。
「かりに、わが国と米国の生産力を1対10とし、各々の根拠地から戦場までの距離を1対5としよう。この場合、戦場における彼我の戦力比は次の通りとなる。
日本軍の戦力 1/(1X1)=1.0
米国軍の戦力 10/(5X5)=0.4
つまり、敵の根拠地からの距離の5分の1に戦場を選べば、敵の戦力はこちらの4割にしかすぎない」と佐藤氏は述べる(脚注38)。
日本軍はその原則に従ったか?否。ラバウルもソロモン諸島のガダルカナルも東ニューギニアも、敵根拠地豪州の近くである。
そもそも防衛ラインと考えていたバンダ海から、ラバウルは二〇〇〇km以上離れている(脚注151)。ガダルカナルは、ラバウルからさらに一〇〇〇km遠い。
井上成美ら海軍は、攻勢終末点をはるかに越えた地域にまで戦線を拡げていった。敵が奪い返しに来るなどとは全く考えない。後方兵站=補給のことも一切考えていない。
「海軍は、米軍の攻勢はあのバルチック艦隊と同様、戦艦が舳(へさき)を列ねて来るものとばかり考えている。わが外郭用地が敵に奪われて、その侵攻基地にされる発想はない。
この作戦は『基本戦略』に対する本質的違反であり、風のように行って風のように去った真珠湾奇襲より、さらに悪質といえる」。海軍の戦略を担当した者は「攻勢終末点すら知らなかった」。佐藤氏は鋭く批判する(脚注38)。
消耗戦を強いられ敵術中に嵌る
井上成美はソロモン諸島のツラギ島に水上飛行基地を作り、ガダルカナル島に飛行場を整備した。これらは海軍工兵隊が昼夜をわかたず苦労して造り上げた飛行場である。日本海軍は攻勢終末点を越え、後方兵站も考えずに無謀に飛び出した。
米海軍は、ガダルカナル島の飛行場が完成してゆく経過を逐一偵察、把握していた。入念な準備をしながら飛行場の完成を待った。「後方支援基地」「コーストウォッチャーと称する対空監視網を設け、さらに航空通信網、気象観測態勢などの基地基盤を整備してガ島の飛行場完成を待った」という(脚注38)。
一九四二年八月七日、ツラギ水上飛行基地とともに、完成したばかりのガダルカナル島飛行場は米軍に無血占領されてしまう。あっという間だったという。日本軍は苦労して飛行場を作ったものの、そのまま強力な米軍基地になってしまった。
日本軍はガダルカナルの奪回作戦を行なう。しかし、海軍の連合艦隊は艦隊決戦で全力投球を行なわない(脚注152)。敵の後方兵站を叩かず、こちらの輸送船は守らず。帝国海軍の暴走に付合わされて島に送り込まれた陸軍将兵の元には、重火器も食糧も届かなかった。
ガダルカナル島での戦いに送られた陸兵は三万人。戦闘での死亡が五千人。餓死が一万五千人。残り一万人が餓死寸前に撤退したという。
戦艦も空母も出動しない中、奮闘した海軍部隊が二つあったという。餓えに苦しむガダルカナル島陸軍部隊に食糧輸送を続けた駆逐艦部隊と、ラバウル海軍航空隊と俗に呼ばれる海軍第十一航空部隊である。
駆逐艦の「搭載砲は海面だけが撃てて空は撃てない」。制空権が握られている中、貨物輸送に最も不適当な船で一〇〇〇kmを往復する。米軍攻撃機の格好の標的である。
「アメリカ軍はきまって現れる日本駆逐艦隊を『東京急行』と呼んだ。その非合理性に対する軽蔑と、獅子奮迅の働きに対する若干の敬意も含んでいるのだろう」と佐藤氏は書いている(脚注38)。十五隻が撃沈され、六十三隻が撃破されたという。
図31 東京急行航路図(脚注38より)
ラバウル航空隊はさらに絶望的である。一式陸攻とゼロ戦は片道千キロを三時間で飛び、ガダルカナル上空で十分間敵と交戦する。連日ラバウルを発進してガダルカナル島を目指したという。
我が飛行隊はコーストウォッチャーと呼ばれる対空監視網に引っかかり、「機種、機数、高度、速度、方向など、必要事項は逐次ガ島に報告される。ガ島の米軍は、勝てる戦力をそろえて最適の時間に離陸し、有利な高度と方向からわが攻撃隊を迎え撃つ。あるいは太陽を背にして、あるいは雲に隠れて、突如襲いかかった」だろう(脚注38)。
すでにゼロ戦の優位は失われていた。米軍は単機戦闘を避け編隊戦闘を仕掛ける。味方が攻撃中に別の機がゼロ戦を攻撃する。もともと防御力無視で設計されている。弱点が分かると「ゼロ戦は撃墜しやすい欠陥機に一変した」という。一式陸攻も同様である。「one-shot lighter」と米軍は呼んだ。
ベテラン操縦士は次々に戦死する。補充は未熟なパイロット達である。ラバウル航空隊は同じ攻撃を繰り返し繰り返し行なった。米軍は「驚きながら存分に撃墜した」。米軍の損害は「ないといったほうがよいくらい」だったという(脚注38)。
「なぜいつも同じ手を使ってその都度叩きのめされたのか」と終戦後米軍は元日本海軍関係者に訊ねたという。
佐藤氏は書く。「理由は簡単である。戦果誇大報告である。味方の損害は大きいが、戦果はそれ以上であると思い込んでいた」「当時ラバウルにおられた方からお電話を頂いた。『あの(司令部の)人たちは金鵄勲章が欲しかったのですよ』と」(脚注38)。
「戦力は根拠地と戦場の距離の自乗に反比例する」。この鉄則に従い、米軍は「自分たちに有利な戦場を選び、敵の苦手な戦闘を強いること」に成功した。日本軍は圧倒的に不利な戦場で戦うことになった。敵が待ち受けている戦場。敵にとって好都合な状況で戦ったというわけである。
杜撰な搭乗員補充計画
搭乗員の訓練補充計画も杜撰だった。というより、開戦当初は補充計画自体を全く立てていなかった。そもそも海軍兵学校には航空兵科がなかった。卒業して一年くらいたった少尉を毎年数十人程度に飛行訓練を施した。
一九四一年十月一日当時、日本海軍の保有機数は三一〇四機だった。搭乗員数は六一五〇人であった。三千機もあれば、六千人もいれば戦争は十分できる。そう海軍首脳部は踏んでいた。しかし戦闘消耗に関する見方は極めて甘かった。海軍の大失態の一つである。
開戦からミッドウェー海戦まで、約五百機、約一千名を失った。ともに約十六%である。海軍は航空消耗戦の実体に呆然とした。
ガダルカナル戦は一九四二年八月から六ヶ月。その間の喪失海軍機は九三二機、喪失搭乗員数は二三六二名。開戦時の四十一%だった。
搭乗員の補充態勢は貧弱そのものだった。海軍兵学校でも航空転科なく、航空兵科も設けなかった。航空士官増員対策が施されたのは、一九四三年秋採用の予備学生からだった。連戦連勝のウソを報告して東京と国民を騙していたのだから、対策が手遅れになることなど当然だろう。
ガダルカナルから東ニューギニアの戦いにおいて、何と八〇〇〇機もの航空戦力を失ったという。「絶対に避けねばならなかった航空消耗戦に巻き込まれ」た。もう一つの航空戦力である基地航空戦力を壊滅され尽くしたのである。
戦略のない無謀な戦いである。航空機はともかく沢山の有能な搭乗員が犠牲になった。部下を大切にしない将は指揮官の名に値しない。帝国海軍は、こうして「『勝った、勝った』と言いながらの自滅作戦」を繰返したのだった(脚注38、58)。
戦略なき戦い
ガダルカナル島を巡る戦いが戦略上どのような意味を持っていたか。日本軍が愚かにも攻勢終末点をはるかに越えて飛び出してしまったことは既に書いた。
他方、米軍の意図について、佐藤氏は「米軍がなんのためにあんな基地(引用者脚注106)を奪ったのか理解に苦しむ」としながらも、「結果的に連合国にとって偉大な戦略的功績となっている。連合国の輸送大動脈インド洋を制圧される大ピンチを救うことができたからである。
さらに、日本海軍はインド洋を捨ててガダルカナル島に引きつけられたあげく、戦力の出し惜しみをして航空戦力を壊滅されつくすというオマケまでついたのである」と評した。
図32 ガダルカナル島(脚注58より)
また「なぜ日本軍はインド洋を放棄したのであろうか?ミッドウェー以降ガダルカナル島のような戦略価値の皆無の島で、航空部隊の自滅戦にも等しい戦闘を続け、戦艦も空母も惰眠を貪ったのであろうか?」このように佐藤氏は憤りをもって嘆息している(脚注38)。
太平洋での衝突は、戦略を明確に持っていた軍隊の国と、戦略を持たない軍に暴走された国の戦いだった。
幻の絶対国防圏強化構想
米軍の反転攻勢が始まりガダルカナル島から日本軍が撤退したあと(脚注154)、山本五十六の搭乗した飛行機がブーゲンビル島上空で撃墜され山本が戦死する(脚注155)。後を継いだ古賀峯一連合艦隊司令長官は、陸軍が主張する「絶対国防圏」構想を次のように批判したという(脚注156〜158)。
「陸軍の後退思想は絶対に打破すべきで、南東方面から退がることは絶対に認めない。根本思想の合っていないものを妥協して中央協定をやる必要はない」
「連合艦隊は全力を南東方面に注ぎ込む決心である。海軍ばかりが全兵力を挙げて戦い、他がこれについて来ないでは困る。全戦力を発揮するため、陸軍も国家も、この作戦に傾注することが肝要である」。
その意を受け、参謀本部では不毛な論争が続いたという。結果として決まったのが、「マリアナ、パラオなど重要な国防線上の島を差し置いて」「陸軍将兵をマーシャル諸島やラバウル、ブーゲンビル、トラック島など遠隔地に分散配置すること」だった(脚注58)。
図33 絶対国防圏強化構想(脚注58より)
絶対国防圏強化構想は完全に崩れ去った。海軍は、勝手に一九四三年八月二五日付けで第三段作戦命令を発した。「これは、絶対国防圏とは無関係の前方決戦命令」で、「マリアナ防備を主張する正論を押し潰して」しまうことになった。
「九月三十日の御前会議まで騙して、ウソの作戦構想をもっともらしく決めた」「世に言われる『絶対国防圏強化構想』とは、現実には存在しない幻の戦略構想だったのである」と、佐藤氏は指摘している(脚注58)。
海軍=連合艦隊の独善、傲慢、暴走。ああ、そら恐ろしいほど。
彼らは自分の主張を通して実行に移すためなら、政府内部でウソをつき天皇まで騙した。国民に「大本営発表」として戦果を誇大報告した(脚注159)。守る価値のない前方地域に陸軍将兵を送り込んで死なせた。守るべき「本土と海路」を疎かにし、本来の成すべきことをしなかった。
その間に米軍は、両洋艦隊法の成果を現実のものとした(脚注160)。一九四三年六月、米軍は第五艦隊を編成する。それは「日本海軍が考えていたような戦艦部隊ではなく、陸海空軍三者一体の強襲上陸部隊」だった(脚注58)。
司令長官のスプルーアンス大将は訓練を繰返し(脚注161)、一九四三年十一月二一日、ギルバート諸島のタラワ、マキン両島への上陸を敢行する(脚注162〜163)。現地守備隊は悲鳴を上げつつ「玉砕」。太平洋戦線の崩壊が始まることになる。(つづく)
脚注
38)佐藤晃「太平洋に消えた勝機」光文社ペーパーバックス、2003年。
55)佐藤晃「帝国海軍が日本を破滅させた」(上)光文社ペーパーバックス、2006年。
58)佐藤晃「帝国海軍が日本を破滅させた」(下)光文社ペーパーバックス、2006年。
99)新野哲也「日本は勝てる戦争になぜ負けたのか」光人社、2007年。
104)ジェームズ・H・ウッド「『太平洋戦争』は無謀な戦争だったのか」茂木弘道訳、2009年。
139)マリアナ諸島:http://ja.wikipedia.org/wiki/マリアナ諸島
140)パラオ:http://ja.wikipedia.org/wiki/パラオ
141)番外編12 日本滅亡と帝国海軍(Ⅵ)帝国海軍の暴走
142)番外編12 日本滅亡と帝国海軍(Ⅶ)国家総力戦って?
143)もっとも飛び出してはいけない南東方面:東ニューギニア、ソロモン諸島のことを指す。
144)カロリン諸島のトラック環礁:http://ja.wikipedia.org/wiki/カロリン諸島、http://ja.wikipedia.org/wiki/チューク諸島
145)ビスマルク諸島のラバウル:http://ja.wikipedia.org/wiki/ビスマルク諸島、http://ja.wikipedia.org/wiki/ラバウル
146)東ニューギニア:http://ja.wikipedia.org/wiki/ニューギニアの戦い
147)ソロモン諸島:http://ja.wikipedia.org/wiki/ソロモン諸島
148)ガダルカナル島:http://ja.wikipedia.org/wiki/ガダルカナル島
149)井上成美を中心とする南洋部隊:http://ja.wikipedia.org/wiki/井上成美
150)攻勢終末点:http://ja.wikipedia.org/wiki/攻撃の限界点
151)防衛ラインと考えていたバンダ海:インドネシア東部の内海で、小スンダ列島とスレウェシ島(セレベス島)とニューギニア島に囲まれている。
152)艦隊決戦で全力投球を行なわない:第一〜三次ソロモン海戦があったが、何故か海軍の戦い方は腰が引けていた。対するニミッツ提督率いる米国海軍が捨て身の反撃を行なったのとは大違いである。そのあと連合艦隊の戦艦や空母は姿をどこかへくらます。結果として米軍が周辺の制海権を握る。詳しくは後述する。
153)あんな基地:ヘンダーソン基地のこと:http://ja.wikipedia.org/wiki/ホニアラ国際空港、http://ja.wikipedia.org/wiki/ガダルカナル島の戦い
154)ガダルカナル島から日本軍が撤退したあと:http://ja.wikipedia.org/wiki/ガダルカナル島の戦い
155)ブーゲンビル島上空で撃墜され山本が戦死する:http://ja.wikipedia.org/wiki/山本五十六
156)古賀峯一:http://ja.wikipedia.org/wiki/古賀峯一
157)絶対国防圏:http://ja.wikipedia.org/wiki/絶対国防圏
158)吉田俊雄「四人の連合艦隊司令長官」文藝春秋、1981年。
159)「大本営発表」として戦果を誇大報告した:http://ja.wikipedia.org/wiki/大本営発表
160)両洋艦隊法の成果を現実のものとした:http://ja.wikipedia.org/wiki/両洋艦隊法
161)スプルーアンス大将は訓練を繰返し:http://ja.wikipedia.org/wiki/レイモンド・スプルーアンス
162)ギルバート諸島:http://ja.wikipedia.org/wiki/ギルバート諸島
163)タラワ:http://ja.wikipedia.org/wiki/タラワの戦い
164)マキン:http://ja.wikipedia.org/wiki/マキンの戦い
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2011年2月26日土曜日