さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策
What should we do now? Explore the history of Japan and the world.
〜 PEKのひとりごと PEK’s soliloquy 〜
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xiii’’’’’’’’’’’’’)番外編12 日本滅亡と帝国海軍(Ⅰ)日露戦争まで
太平洋戦争(大東亜戦争、脚注1〜2)は何故起こったのか?日本は米国とどうして戦争までしてしまったのか?東京裁判(極東国際軍事裁判、脚注3)では、日本の軍国主義指導者が「世界支配の陰謀のため共同謀議」したからだとされた(脚注4〜5)。
裁判と裁判以外で明らかにされ、さらにその後プロパガンダがなされることによって、日本軍は残酷だったというイメージだけが国民の脳裏に焼き付いている。生産力の差を無視し精神論だけでバカな戦いをしかけたと、現在の国民の多くは呆れ果てている。
しかしそれらは真実だろうか?歪みや偏りのない事実だろうか?
特に帝国陸軍の暴走、無謀な戦略、バンザイ突撃による玉砕、残虐性などが槍玉に挙がっている。それに比べて海軍はよく戦ったと言われ、いわゆる「陸軍悪玉、海軍善玉」説が一般的に信じられている。
太平洋戦争(大東亜戦争)での歴史的真実を、私たちはどれほど真剣に検証したのだろうか?誰かが書いた歴史、真実とは必ずしも言えないかもしれない歴史を、無批判に受入れてはいないだろうか?日本に破滅をもたらした本当の理由は何だったのか。
何回かのシリーズで、若干の考察を加えてみたい。最初は大日本帝国の海軍(帝国海軍)を扱う。まずは太平洋戦争(大東亜戦争)よりずっと前、十九世紀に我が国が置かれていた状況から説き起こす。
十九世紀後半の極東情勢
いわゆる徳川三百年の太平の眠りから揺り起こされ、日本は開国し明治維新を断行する。国の形を大きく変え、産業革命を興し、インフラを整備し、教育を体系化し、軍隊を強くした。頑迷固陋の旧習を打破し、「脱亜入欧」を合い言葉に西欧文明を積極的に取り込んだ。
思想家たちは、アジアが団結する形で欧米列強に対抗し、それぞれの独立を保とうと訴えた。その一方、列強と結んでしまった不平等条約(脚注6〜7)を改正するために、明治政府は涙ぐましい努力を重ねた。
図1 十九世紀(一八五〇年発行)の世界地図
(http://www.maproom.org/00/03/present.php?m=0025)
図2 十九世紀(一八五〇年発行)の極東
(http://www.maproom.org/00/03/present.php?m=0055)
十九世紀後半、欧米列強の次のターゲットは日本だった。清国はアヘン戦争(脚注8)で英国に敗れはしたが、列強から「眠れる獅子」と恐れられていた。
ところが、一八九四〜一八九五年、李氏朝鮮の独立をめぐって日清戦争(脚注9)が勃発した。歴史的には、旧来の中華朝貢体制に基づく清国と属国李氏朝鮮の関係性を維持しようとする勢力と、欧米列強の餌食とならないよう近代化を急ごうとした勢力が激突したと言える(脚注10)。
はじめ弱小と見られていた日本が勝利。李氏朝鮮は中国の属国から独立した。大韓帝国の誕生である。隣国は千年の属国状態から初めて独立を勝ち取ったのである(脚注10)。
列強は清国の本当の姿を見た。もはや「眠れる獅子」などではない。必要以上に恐れることはない。競って進出を試みるようになる。列強による清国分割のスタートである。
日清戦争に勝利した日本であるが、一八九五年、露独仏の三国干渉により清国から締め出される(脚注11)。「遠交近攻」「夷をもって夷を制す」の通り、地理的に近い日本に対抗するために、清国は遠い露独仏を利用したのである。列強の脅かしに屈して、日本は遼東半島を清に返還した。
下関条約(一八九五年、脚注12)で約束させられた日本への賠償金の借款供与を、列強は清国に申し出た。その見返りに、次々と租借地や鉄道敷設権を獲得。特定範囲を他国に租借・割譲しないなどの条件を得ていった。
一八九八年、欧州列強は清から一定の権益を獲得する。
独 膠州湾租借条約調印で膠州湾を租借。
露 大連-旅順両港租借権と南満州鉄道敷設権を獲得。
英 香港島の北に九龍半島があるが、九龍以北、深圳河以南の新界地域の租借に成功。
仏 広州湾を租借。
同じ年、米国は米西戦争を戦い、フィリピンを植民地化している(脚注13)。欧州列強による清国分割競争が激しくなる中、米国は乗り遅れていた。その出遅れを取り戻すべく、一八九九年、米国はヘイ国務長官が清国に関する「門戸開放、機会均等宣言」を出す(脚注14)。
日露戦争への道
三国干渉以来、日本は支那から追い出されていた。その上、せっかく日清戦争で大韓帝国が独立したのに、朝鮮王朝は日本の足元を見て露に助けを求めた(脚注15)。半島民族特有の事大主義である(脚注16)。半島の近代化は停止し露に隷属する勢力が優勢となる。
一九〇〇年、義和団事件(北清事変、脚注17〜18)が起こる。清国は列強(英米独仏露伊墺日)に宣戦布告して敗れる。北京議定書が交わされ、列強は居留民保護のため軍隊を駐留させることになる(脚注19)。
一八九六年と一九〇〇年の二つの露清密約(脚注20)を結んで、露は満州の植民地化を既定事実化しようとした。日英米がこれに抗議したため露は撤兵を約束した。しかし露は履行期限を過ぎても撤退せずかえって駐留軍の増強を図った。清は元々の出身地方である満州を露に売り渡した形となった。
せっかく日清戦争で血を流して大韓帝国を独立させることに成功した。しかし今やその犠牲が無駄になる。朝鮮半島を近代化し、一緒に欧州列強の圧力に抵抗しようという努力が完全に潰(つい)えてしまう。
露の態度は強硬で、朝鮮半島で獲得した権益を譲る気などさらさらなかった。大韓帝国が露の支配下に入るなら、露の刀剣が朝鮮半島を通して日本の喉元に突きつけられたも同然。朝鮮半島を巡って、日本と露の衝突は避けられない情勢となる。
このままでは露の満州支配が固定化する。そればかりか露の支配権は大韓帝国にも及ぶ。シベリア鉃道の完成が迫り朝鮮半島に露の軍事基地が構築され始めた(脚注21)。
日露戦争(一九〇四年、脚注22)で、米国が日本を支援したのは何故か?日本と米国の利害が一致したからである。米国は、露が日本と戦うことによって、清国への露の介入に歯止めがかかることを期待した。そのかわり、米国自身が清国に対する権益を獲得しようとした。(つづく)
脚注
1)太平洋戦争:http://ja.wikipedia.org/wiki/太平洋戦争
2)大東亜戦争:http://ja.wikipedia.org/wiki/大東亜戦争
3)東京裁判、極東国際軍事裁判:http://ja.wikipedia.org/wiki/東京裁判
4)東京裁判、極東国際軍事裁判に対しては、当初からさまざまな批判的意見が出されている。主に次のようなものである。
◎ 裁く側はすべて戦勝国が派遣した人物だった
(ドイツのニュルンベルグ裁判ではドイツ法曹界からも判事が出た)
◎ 極東国際軍事裁判所条例(チャーター)しか裁判の根拠がなかった
東京裁判では、戦後制定されたチャーターという「事後法」で過去の出来事が裁かれている。そもそも近代的な裁判制度では、いま作った法律で過去の犯罪行為を取り締まってはいけないという原則がある。「事後法で裁いてはいけない」「法律不遡及の原則」とも言われる。東京裁判ではそういった基本的な原則が守られていない。
◎「罪刑法定主義の原則」が守られていない
そもそも近代裁判制度では、犯罪行為の内容とそれに対する刑罰が予め明確に規定されているべきであるとされている。それを「罪刑法定主義」の原則という。東京裁判では「法律不遡及の原則」の他「罪刑法定主義の原則」が守られていない。
◎「法の下の平等」が保障されていない
連合国側の戦争犯罪が裁かれない。
◎ 証人のすべてに偽証罪を問わなかった
◎ 証拠採用が不公平だった
日本側からの三千点を超える弁護資料はほぼ却下されたにもかかわらず、検察の資料は伝聞にもとづくものであっても採用されるという不公平が存在した。
◎ 事実認定が杜撰(ずさん)だった
起訴状によれば、A級戦犯28名が1928年から1945年まで一貫して「世界支配の陰謀のため共同謀議をした」とされた。判決を受けた25名中23名が「共同謀議」で有罪とされた。しかし、彼らの中には互いに政敵同士のものや一度も会ったことすらないものまで含まれていた。日本では一連の戦争中でも陸海軍間の対立など、常に政治的な確執が内在していた。このような複雑な政治状況を無視した杜撰極まりない事実認定だった。
◎ 政治目的を達成するためになされ、始めから結論は決まっていた
モスクワの政治的軍事裁判となんら変わらない独裁裁判(重光葵の言葉)。
◎ すべての判事が集まって協議したことは一度もない
フランスのアンリ・ベルナール判事が裁判後に問題点を指摘。
◎ 世界人権宣言の規定に反していた
「東京裁判は世界人権宣言の規定と相容れず退歩させた」と英内閣官房長官ハンキー卿は語った。「行われたときには国際法でも国内法でも犯罪とされなかった行為について有罪とされることはない」世界人権宣言第11条。
◎ 多数派判事たちはニュルンベルク裁判判決を東京裁判に強引に当てはめた
蘭のベルト・レーリンク判事は多数派判決に批判的な内容の手紙を友人外交官へ送った。「多数派の判事たちによる判決はどんな人にも想像できないくらい酷い内容であり、私はそこに自分の名を連ねることに嫌悪の念を抱いた」と。
5)特にインドのダビド・パール判事は、1235頁にわたる全員無罪の少数意見を発表。事後法で裁くことはできないとした。「被告の行為は政府の機構の運用としてなしたとした上で、各被告は各起訴全て無罪と決定されなければならない」「司法裁判所は政治的目的を達成するものであってはならない」とした。ただし、パール判事の少数意見は文書として残されただけで、判決において朗読されることは決してなかった。
パール氏は1952年に再び来日した際、「東京裁判の影響は原子爆弾の被害よりも甚大だ」とのコメントを残している。
6)不平等条約:安政五カ国条約、http://ja.wikipedia.org/wiki/安政五カ国条約
7)不平等条約:http://ja.wikipedia.org/wiki/不平等条約
8)アヘン戦争:http://ja.wikipedia.org/wiki/アヘン戦争
9)日清戦争:http://ja.wikipedia.org/wiki/日清戦争
10)日清戦争の歴史的意義:本文で述べたような歴史的意義を全く認めず、日本による侵略と一方的に非難し糾弾する人々がいる。当時の李氏朝鮮の実情に目を被うか全く無視して、「朝鮮半島は韓民族が独力で近代化できた」「独立を克ち取れた」と主張する。あるいは、その力はなかったにせよ日本が手を出すべきではなかった、あるがままに(列強によって侵略されるとしたら侵略されるままに)任せるべきだったという意見もある。
11)三国干渉:http://ja.wikipedia.org/wiki/三国干渉
12)下関条約、馬関条約:http://ja.wikipedia.org/wiki/下関条約
13)米西戦争:http://ja.wikipedia.org/wiki/米西戦争
14)門戸開放政策:http://ja.wikipedia.org/wiki/門戸開放政策
15)朝鮮王朝は…露に助けを求めた:http://ja.wikipedia.org/wiki/露館播遷
16)事大主義:http://ja.wikipedia.org/wiki/事大主義
17)義和団事件、北清事変:http://ja.wikipedia.org/wiki/義和団事件
19)北京議定書:http://ja.wikipedia.org/wiki/北京議定書
20)露清密約:http://ja.wikipedia.org/wiki/露清密約:1896年の李鴻章-ロバノフ協定を第一次露清密約、1900年のを第二次露清密約と呼ぶ。特に後者では、満州での軍隊駐留、要塞設置、地方政府に対する監督権の行使を認めるなど、鉄道沿線のみならず満州全域の軍事や行政も支配下に置くことになった。
21)露の軍事基地:「龍岩浦軍港化」:満州と朝鮮を分ける川に鴨緑江がある。河口の港は龍岩浦と呼ばれ黄海に面している。露はそこを軍港とし「ポートニコラス」と呼んだ。
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/1901-10/1903_ryuganho.html
22)日露戦争:http://ja.wikipedia.org/wiki/日露戦争
附)日清戦争から日露戦争までのミニ年表を記す。
一八九四年 日清戦争 (脚注9)
一八九五年 日清戦争講和/下関条約 (脚注12)
一八九六年 三国干渉 (脚注11)
露館播遷 (脚注15)
第一次露清密約 (脚注20)
一八九八年 米西戦争 (脚注13)
一八九九年 門戸開放政策 (脚注14)
一九〇〇年 義和団事件、北清事変 (脚注17)
北京議定書 (脚注19)
第二次露清密約 (脚注20)
一九〇二年 日英同盟
一九〇三年 龍岩浦軍港化(ポートニコラス) (脚注21)
一九〇四年 日露戦争 (脚注22)
(5347文字)
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2011年1月1日土曜日