さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策
What should we do now? Explore the history of Japan and the world.
〜 PEKのひとりごと PEK’s soliloquy 〜
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xiii’’’’’’’’’’’’)番外編11 物の理(ことわり)(Ⅱ)蛇の如く鳩の如く
襲撃・虐殺は賞賛の行為
日本に対し「『真実』を書け!」と主張してやまない中国人であるが、自国の歴史をどう教えているか?「真実」より「主張」の方を「事実」と評価している。その例には枚挙にいとまがない。一例を挙げよう。一九〇〇年の義和団事件(北清事変、脚注5)である。
もともと義和団は、義和拳という拳法を習得して神が乗りうつれば、刀はおろか銃弾すら跳ね返すような不死身になると主張するカルト集団だった。十八世紀末、山東省で勢力を拡大し、「打富済貧」「反清復明」を叫んでいた(脚注6)。
その頃、日清戦争後(脚注7、一八九四~一八九五年)に三国干渉(脚注8、一八九五年)があり、山東省がドイツの勢力内に入り外国人の活動が活発化する。すると義和団はキリスト教会を目の仇とするようになり、教会や外国人への襲撃を繰返した。
図2 義和団の兵士たち
外国の宗教への反発の他、外国資本による交通通信手段の発達により従来の職を奪われた失業者たちの怨念も加わっていたという。「義和団は社会秩序に反するグループである」として、当初、清国政府は義和団に弾圧を加えていた。
やがて義和団の排外活動は華北一帯に波及し、二百人以上の白人宣教師やその子ども約五十人、中国人キリスト教徒二万人が虐殺された。その頃、義和団のスローガンは「扶清滅洋」「興清滅洋」に変化していた(脚注9)。
当初、清打倒が目標だった。それが、西洋を滅ぼし追い出そうという激しい排外運動となっていった。ついに、山東省だけでなく北京や天津などにいる列強の外交官や居留民が義和団に包囲されるに至った。
英米独仏露伊墺日の八カ国聯合が軍隊を送って居留民を保護しようとした。それに対し清は、この機会を利用して外国勢力を駆逐しようと八カ国に宣戦布告した。
政府打倒を叫んでいた違法集団が排外運動に舵を切ったとたん、清国政府はこれに便乗したのである。全くもってご都合主義である。しかし清は二ヶ月ほどでこの戦いに手痛い敗北を喫する。北京議定書に調印し、莫大な賠償金を支払うハメになる(脚注10)。
現代の中国では、義和団の乱を反帝国主義の愛国闘争と評価している。八カ国聯合の騒擾鎮圧行為を一方的に非難。しかし考えてしまう。当時であっても、合法的に権益を獲得して居留していた無抵抗の人々を襲撃し虐殺することが、賞賛に値する行為である筈はない。
義和団によって乱れた秩序を、警察機能を失っていた清国政府の代わりに八カ国聯合が回復した。日本を含む外国の軍隊が平和をもたらしたという側面があった。
しかし、中国人にとっては、義和団が残虐な襲撃や惨殺を繰返していた集団であって、自国政府もご都合主義で愚かだったという「真実」などはどうでもよいこと。外国を排斥する「目的」のためなら、どんな手法でも構わないという「主張」の方が重いのである。
その主張が、“素晴らしい称賛に価する歴史的な「事実」”として子どもたちに教育されていく。自分たちの目的達成のためならどんな残虐なことさえも許容される。そういう確信を中国で教育された人々は抱くようになる。何の不思議もない。
誠実さは侮りの対象となる
もう一つ注目したいことがある。外国軍による義和団事件の鎮圧と治安維持における出来事とその後の中国人の反応である。もう少し詳しく経緯を記す。
北京にも動乱が波及拡大しはじめた頃、義和団による破壊活動で北京と天津との交通が遮断された。各国居留民は北京の公使館がある区域に篭城を余儀なくされた(脚注11)。
一九〇〇年六月十九日、清国政府は篭城を開始した人々に要求した。「中国の全国民は激昂しており、各国人を保護できない。二十四時間以内に天津に退去せよ」と。しかし、城外はすでに無法地帯となっていた。退去は不可能だった。そのため居留民は要求を拒否する。
そこで清の軍隊は公使館のある区域に攻撃を開始した。世界に対する宣戦布告である。塘沽(脚注12)沖の軍艦から居留民保護のために上陸し天津、北京に向かって進軍していた英米独仏露伊墺日の八カ国聯合との間に戦いが起こった。
この戦いは聯合軍の勝利に終わったが、各国居留民が北京公使館区域の篭城から解放されたのは八月十四日。およそ二ヶ月を要した。各国は分担して城内を警備し治安の維持を受け持った。
中国軍の兵隊たちは、各軍閥の各グループが匪族(兵匪)となって、同じ中国国民に対して殺人、略奪、婦女暴行を働いた。義和団も襲撃と略奪、暴行を行う匪族に等しかった。聯合軍は、それらを取り締まり治安確保に努める必要があった。
しかし、聯合軍の一部による匪族の取り締まりは手ぬるかった。それどころか、各国の軍隊も略奪に加わる始末。特にひどかったのがロシア軍とドイツ軍。独露の警備区域では、毎日のように殺人、略奪、強姦が頻発し、自殺者も出現。「地獄だった」とまで言われている(脚注13~14)。
他方、日本軍の占領区では匪族、兵匪の略奪が起こらなかった。生命の保護が保たれ、治安が維持され、住民も救済されていた。当時の日本軍は柴 五郎中佐が率いていて軍紀厳しく、日本軍が略奪を働くことはなかった。北京市民は保護を求めて日本軍占領区に殺到したという(脚注15)。
図3 義和団の乱で日本軍を率いた柴 五郎中佐
篭城戦は苛酷で中国人クリスチャンたちの協力なくしては成功しなかったとも言われる。しかし、北清事変終結後、そのキリスト者たちは「外国に協力した漢奸」として迫害に遭う危険性が高かった。そのため一緒に戦った各国居留民らはそのことを公にすることを控えていた(脚注5)。
残念なことに、一部の強硬な中国人は排外的な張り紙を日本軍占領地域に貼り始めた。他の地区では簡単には貼れないのに、治安の守られた日本軍警備区域だけは貼ることができた。「『やさしさ=弱さ』と判断する中国人は、日本人に不満をぶつけ始めた」という(脚注16)。
義和団事件は帝国主義と戦う民衆の蜂起であると中国では教えている。だが、外国人すべてが「悪」だったわけではない。
外国の介入を招いたのは、もともと義和団の襲撃と虐殺という「悪」が原因だった。中国人も被害に遭って苦しむ良民の他に、無法者で残虐な連中もいた。匪族の仲間となった者も多かった。自分たちに都合の良いことも悪いこともある。そのどちらも「真実」である。
ところが、柴 五郎中佐や日本軍が誠実に行動したという「真実」や、中国人が同じ中国人を略奪、暴行、虐殺したという「真実」は、多くの中国人にとっては重要なことではない。
「誠実さ」「やさしさ」「人道的な協力精神」は、相手が外国人であれ自国民であれほとんど評価の対象とならない。中国人の間では、そういった「徳」を示す人々は、却って「侮り」の対象となるか、「漢奸」として迫害すべき対象となるかである。
外国人は「悪」だ。だから、外国を排斥するという「目的」のためなら、自分たちのどんな残虐さも正当化される。そういう「主張」が、素晴らしく賞賛に価する歴史的な「事実」としていつまでも語り告げられるのだ。
真実をどう見るか
「真実」をありのままに見つめられない。バランスよく見る力がない。良いことも悪いこともあるという両面から見ることができない。「理(ことわり)」を理解しない一方的な態度。中国を始めとする儒教に縛られ続けた国々に住む人々の残念な側面を見てきた。
他方、日本人にも欧米人にも残念ながら「アンバランス」な見方しかできない人々がいる。もちろんこの自分も含めてである。
バランスを大きく欠いた考えには徹底的な抵抗を試みたい。事実をねじ曲げ強硬な姿勢で主張し攻撃してくる邪悪な力に屈したくはない。「理(ことわり)」を理解しない主張に対しては「蛇のようにさとく」ありたい。
反対に、自分に都合が悪く相手にとって都合の良いことであっても、「真実」に対しては「鳩のように素直」でありたい。
そして、「鳩」と「蛇」のバランスを適切にとっていきたい(脚注17)。柔軟なスタンスをとり続けたい。そう切実に願う。(了)
(本論「真実を前にして」の冒頭へ)(マイ・アーカイブズへ)
脚注
5)http://ja.wikipedia.org/wiki/義和団の乱。
6)打富済貧、反清復明:金持ちを打って貧しい人々を救う。満州人の清を打倒し漢人の明を復活させる、というもの。
7)http://ja.wikipedia.org/wiki/日清戦争。
8)http://ja.wikipedia.org/wiki/三国干渉。
9)扶清滅洋:清を助け西洋を滅ぼす、という意味。
10)http://ja.wikipedia.org/wiki/北京議定書。
11)各地から逃れてきた中国人キリスト教徒三千人も匿われたという。
12)塘沽:とうこ、たんくー:天津市にかつて設置された市轄区、華北地区の重要港湾である天津港がその中に含まれていた。
13)セルゲイ・ウィッテ著「日露戦争と露西亜革命 ウィッテ伯回想記」大竹博吉訳、ロシア問題研究所、1930年。
14)ドイツは北清事変の最中に公使が殺害されている。ドイツ警備地区での軍の狼藉は公使殺害の報復に燃えていたためと言われる。
15)http://ja.wikipedia.org/wiki/柴五郎、柴 五郎中佐は北京市の良民からだけでなく各国の指揮官、外交官、記者からも賞賛され、一九〇二年日英同盟の影の立役者とも言われるほどの活躍をした。
16)黄 文雄著「日中戦争真実の歴史」徳間書店、2005年。
17)「蛇のようにさとく、鳩のように素直でありなさい」マタイ10章16節、新改訳聖書、日本聖書図書刊行会。
(3920文字)
2010年12月10日金曜日