さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策
What should we do now? Explore the history of Japan and the world.
〜 PEKのひとりごと PEK’s soliloquy 〜
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〜 PEKのひとりごと PEK’s soliloquy 〜
xiii’’’’’’’’’’’’’)番外編12 日本滅亡と帝国海軍(Ⅱ)対立の理由は?
日露戦争後の対中政策
日露戦争(脚注22)で、日本はギリギリのところで幸運な勝利を手にした。米国が期待した通り、日本は露の支那進出の防波堤となってくれた。しかし、日露戦争後は逆に、日本が米国の満州進出の防波堤となってしまった。米国はそう思った。
その一つの理由は、米国の鉃道王ハリマンによる南満州鉃道の共同経営に関する提案に、日本が同意しなかったからである(脚注23、24)。
米国は支那大陸に進出したかったが、日本が独占してしまうのではないかと恐れ始めた。「太平洋には日本の連合艦隊に対抗できるシーパワーが存在しない」(脚注25)と米国が考えるに至ったことも理由の一つである。日本は米国にとって邪魔な存在になった。
図3 セオドア・ローズベルトと白色艦隊
米国海軍大西洋艦隊は一九〇七年十二月から一年二ヶ月をかけて
世界一周航海を行った。日露戦争に勝利した日本に対して、米国
海軍力を誇示するためである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/グレート・ホワイト・フリート
今では信じられないことだが、当時、欧米列強が支那の権益を狙うのは当然の権利であり正義だった。黄色人種の日本人が満州の権益を我が物にすることなど、とうてい許せるものではなかった。徹底的な白人優越主義、人種差別である。
欧米世界には黄禍論(脚注26)が渦巻き、特に白人国家米国の日本に対する憎悪は凄まじいものとなっていった。黄色人種の日本人が攻め込んで来るのではないかという、脅威、恐怖、危機感まで抱き始めた。
図4 黃禍論を煽った風刺画
「“The Yellow Terror In All His Glory”, 1899, editorial cartoon」
本図の載る発刊物は日露戦争の五年前のものである。
支那人と日本人が同様に脅威として受け止められていた。
冷静に考えると、実情は経済だけをとっても米国の危機感とはかなり違うものだった。当時、「南満州鉄道の枕木、線路、信号等は米国製品を購入している。このため満鉄は『南満州米国鉄道』とまで呼ばれた」(脚注27)ほどだった。
他方、日露戦争は清にとってはどのようなものだったのか?確かに、満州は日露戦争で戦場にはなった。しかし支那は何も失っていない。逆に、清は満州を取り戻せた。誰が血を流した結果か?日本である。日本は露と戦って満州を清に返した。
露清密約で清は露に満州を売り渡していた(脚注20)。日本は血を流して満州を露から取り返し清に返却したというのが史実である。しかし、支那は日本に感謝や尊敬をしたか?否、かえってバカにした。反日、侮日である。
もちろん満州における最低限の権益を日本が手に入れたことは確かだ(脚注28)。しかし、支那にとって、欧米に自国の権益を切り売りすることは我慢できても、劣等民族の「小日本」に対して欧米と同様の権益を与えることはプライドが許さなかった。
徹底的な白人優越主義から日本憎しで固まっていた米国。中華思想から日本を蔑視していた支那。ここに両国の利害が一致することになる。日本が満州を清の手に戻したという誠実さなどは理解されず、かえって嘲りと侮りの対象となった。
これが日本vs米中対立の真の背景である。太平洋での日米衝突に繋がっていく。
第一次大戦後の日米関係
時代が少し下って一九一九年、第一次世界大戦後のベルサイユ条約(脚注29)では、独が山東省で得ていた権益が日本に継承された。
中華民国では「五四反日運動(脚注30)」が起きた。米国が多額の資金を投じて反日工作を着々と進めた結果だ。これを俗に「嗾支(そうし)反日工作(脚注31)」と言う。日中対立のカゲに米国の策略、陰謀、諜報工作があったのである。
同じく一九一九年、パリ講和会議(脚注32)では、日本が国際連盟の憲章に盛り込もうと「人種平等決議案」を提案した。人類史上初めて提案された画期的な決議案は、欧米諸国の偏見と反対にあいながらも見事十一対五の賛成多数を得た。
しかし、議長を務めていた国際連盟の提唱者ウィルソン(当時の米国大統領、脚注33)は、突如として全会一致を主張。日本が提案した決議は見事に葬り去られた。しかも、米国は結局のところ国際連盟に加盟せず。
一九二四年に、米国は「排日移民法(脚注34)」を成立させた。さらに、同年、日本を仮想敵国とした本格的な戦略を策定した。これがいわゆる「オレンジ・プラン(脚注35)」である。
オレンジ・プランの基盤となるのが米国の極東戦略である。それは、支那を助けて日本と戦わせ日本を壊滅させる。日本を支那大陸から追い出し、米国が支那への進出を果たす。これが当時の米国の極東戦略、青写真だったと言って良い。(つづく)
脚注
20)露清密約:1896年の李鴻章-ロバノフ協定を第一次露清密約、1900年の秘密協定を第二次露清密約と呼ぶ。特に後者では、満州における露の軍隊駐留、要塞設置、地方政府に対する監督権の行使を認めた。露は鉄道沿線のみならず満州全域の軍事や行政も支配下に置いた。清が露に満州を売り渡したのである。:http://ja.wikipedia.org/wiki/露清密約
22)日露戦争:http://ja.wikipedia.org/wiki/日露戦争
23)鉃道王ハリマン:http://ja.wikipedia.org/wiki/エドワード・ヘンリー・ハリマン、日露戦争の資金調達に明治政府は外債を発行した。米国ではハリマンを中心に多額の資金投資をした。その狙いが見事当たって米国が応援した日本の勝利に終わる。そこでハリマンは、南満州鉃道の経営に対して、当時としては破格の資金提供を申し出た。米国国務省肝いりの提案だった。結果として断った日本は、ハリマンの提案というより米国全体を袖にしたわけである。
24)http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/1901-10/1905_hariman.html には次のように解説されている。
「井上馨、伊藤博文、桂太郎、渋沢栄一らはハリマンの提案に賛成した。日露戦争で金を使い果たし、戦争に勝ったとはいえまだロシアの大軍は満州の北におり、ロシアの復讐も警戒しなければならない。満州の鉄道経営をアメリカと一緒にやったほうがいいと考えたのである。こうして桂首相はハリマンと仮条約を交わした。
しかし、外相の小村寿太郎がポーツマス条約の調印を終えてアメリカから帰国すると、この仮契約に猛烈に反対した。日露戦争で10万同胞の尊い命と20億円の国費を犠牲にして得た満州の権益をアメリカと共有するなど許されないというわけで、当然といえば当然のことだった。結局、日本政府は仮約束を取り消すことになった。
取り消しの電報をサンフランシスコに上陸して受け取ったハリマンは、日本が支那大陸にアメリカを入れないつもりだと議会に訴えるが、さすがにこの時点では強引なことができなかった。
アメリカは支那大陸に進出したいと考えていたが、日本がこれを独占してしまうのではないかと恐れ、次第に日本が邪魔な存在になっていった。また、ただでさえアメリカは有色人種の日本が白人の大国であるロシアに勝ったことに脅威・恐怖を感じ始めていたのだが、そこへ仮条約を一方的に破棄され敵愾心が生まれた。
また、アメリカは太平洋艦隊を持っていなかったため、日本が太平洋を渡ってアメリカに攻め込んでくるのではないかという危機感(妄想といえる)を勝手に抱いた。日本はアメリカを攻撃するなどまったく考えてもいなかったにもかかわらずである。このためアメリカは急遽軍艦を作り始めた。
その後もアメリカは1909年には満州鉄道の中立化を提案してきたが、日本はロシアと組んでアメリカの動きを封じる。日露戦争後、日本とロシアは良好な関係を維持するようになり、満州は安定した状況でありえた。これが崩れるのはロシア革命以後である。
ハリマン提案を受け入れていれば、もしかすると日本は大東亜戦争に突入せずにすんだかもしれないと考える人もいる」。
25)若狭和朋「日本人が知ってはならない歴史」星雲社、2004年。
26)黄禍論:http://ja.wikipedia.org/wiki/黄禍論
27)満鉄は「南満州米国鉃道」とまで呼ばれた:http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4434113585/ref=dp_top_cm_cr_acr_txt?ie=UTF8&showViewpoints=1
28)遼東半島の先端部関東州の租借権と南満州鉃道の権益を獲得した。しかし、それらは露から譲り受けただけで、清はすでにもっと広範にわたる権益を露に渡していた。1896年と1900年の露清密約による。脚注20を参照。
29)ベルサイユ条約:http://ja.wikipedia.org/wiki/ベルサイユ条約
30)五四運動:http://ja.wikipedia.org/wiki/五四運動
31)嗾支(そうし)反日工作:支那を嗾(そそのか)して反日運動に向かわせるという諜報工作を指す。
32)パリ講和会議:http://ja.wikipedia.org/wiki/パリ講和会議
33)国際連盟の提唱者ウィルソン:http://ja.wikipedia.org/wiki/ウッドロウ・ウィルソン
34)排日移民法:http://ja.wikipedia.org/wiki/排日移民法
35)オレンジ・プラン:http://ja.wikipedia.org/wiki/オレンジ計画:1919年に立案され1924年初頭に陸海軍合同会議で採用された、「起こり得る大日本帝国(日本)との戦争へ対処するためのアメリカ海軍の戦争計画。カラーコード戦争計画のひとつであり、これ自体は交戦可能性のある全ての国を網羅してそれぞれ色分けされ計画されたもので、日本だけを特別視していたわけではない。しかしながら、最終的には原爆投下の原動力となった側面は見逃すことは出来ない」
「この計画では、緒戦では日本軍の攻勢に対し持ちこたえることを想定していた。カリフォルニア基地での太平洋艦隊の編成(平時は、艦船はその乗組員の半分のみ保持している)と、日本軍のパナマ運河への攻撃に対して防衛することが重視され、その間フィリピンや他の西太平洋におけるアメリカの海外領土では物資の供給停止を予期した(これらの地域では、アメリカ本土からの応援は期待できないため独力で持ちこたえるとされた)。
次の段階では、兵士動員とカリフォルニアでの艦隊編成を完了させた海軍が、グアムとフィリピンのアメリカ軍を救援するために、西太平洋に出動する。その後、艦隊は日本海軍との決戦のために真北の日本列島近海へ進み、日本艦隊と決戦を行いこれを倒す。最終段階では、制海権を握ったアメリカ艦隊が日本本土を海上封鎖し、中国からの物資に頼る日本の産業や軍事力を圧迫して降伏へ追い込む。
アメリカ側の想定では、日本海軍はアメリカ艦隊の太平洋横断を許すものの、途中で潜水艦、空母機動部隊、駆逐艦や巡洋艦などの補助艦による攻撃でアメリカ艦隊の戦力を削るという対抗策(日本ではこれを『漸減邀撃』と呼んだ)を作成していると考えられた。そのような消耗を与えた後で日本艦隊は日本近海の『決戦海域』へ艦隊を誘い込みアメリカとの戦いを挑むとした」とある。
附)日清戦争から排日移民法、オレンジ計画までのミニ年表を記す。
一八九五年 日清戦争講和/下関条約 (脚注12)
一八九六年 第一次露清密約 (脚注20)
一九〇〇年 北清事変 (脚注31)
一九〇〇年 第二次露清密約 (脚注20)
一九〇二年 日英同盟
一九〇三年 龍岩浦軍港化(ポートニコラス) (脚注21)
一九〇五年 日露戦争講和条約 (脚注22)
一九〇五年 米国鉃道王ハリマンの提案を拒否 (脚注23、24)
一九〇七年 グレート・ホワイト・フリート世界一周航海 (図3)
一九一九年 第一次世界大戦終結/パリ講和会議 (脚注32)
人種平等決議案 (脚注32)
ベルサイユ条約 (脚注29)
五四反日運動 (脚注30)
嗾支反日工作 (脚注31)
一九二四年 排日移民法 (脚注34)
一九二四年 オレンジ計画策定 (脚注35)
(4747文字)
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2011年1月14日金曜日