さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策
What should we do now? Explore the history of Japan and the world.
〜 PEKのひとりごと PEK’s soliloquy 〜
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xiii’’’’’’’’’’’’’)番外編12 日本滅亡と帝国海軍(Ⅳ)決定的対立へ
省益優先の仮想敵国
日露戦争(脚注22)を勝利に導いた英雄の一人と称されている人物に児玉源太郎がいる(脚注53)。単に軍人であるばかりでなく、政治家、戦略家、戦術家、外交家などとして八面六臂の活躍をした。希代の逸材と言って良い(脚注54)。
戦後、児玉は軍縮に動く。「将官の数を半減して師団数の大削減を企図」した(脚注55)。軍拡より国力涵養の時と考えた。真のリーダーかくあるべしという姿勢だった。当然、反対にあった。陸軍よりむしろ海軍が強く反対した。
来るべき露との宿命的対決に備えるべきであるとする陸軍ならまだ現実的であろう(脚注56)。しかし、連合艦隊を必要とする敵艦隊は東洋のどこにも存在しなくなった。にもかかわらず海軍は反対した。国益よりも海軍の省益の方を優先させたと言える(脚注57)。
図8 児玉源太郎 図9 山本権兵衛
陸軍出身だったが日本全体のために 海軍の統帥権独立を勝ち取った
尽力した希代の逸材だった。日露戦 明治時代の実力者。国益よりも
争終結後間もなく帰らぬ人となった。 海軍省の省益を優先した。
しかし、児玉は一九〇六年七月に脳溢血で急逝。名実共に大物だった児玉は帰らぬ人となった。海軍の実力者山本権兵衛は、同年末に「まるで、児玉の死を奇貨としたようなタイミング」で「第一次対米戦備増強計画を打ち出し」た(脚注55)。
この頃から国家や軍の意志決定システムの分裂が決定的となる。陸軍は大陸を担当し露を仮想敵国とした。海軍は太平洋方面を担当して米国を仮想敵国とした。「近代国家にあるまじき担当分担」である(脚注58)。日本の国力を考えても狂気の判断だろう。
一九〇七年四月、方針統一を図ろうと会議を開いた。しかし「帝国国防方針」なるものを決定してしまう(脚注59)。大日本帝国は国防思想を統一しようとしたが。その狙いは果たせず、陸海軍で仮想敵国が違うという奇妙な状況が追認されたのである。
軍隊はどこもそうだろうが、特に海軍はお金がかかるものらしい。「例えば一九二一年(大正十年)の海軍予算は、国家総予算の三二%だった」という(脚注55)。軍備より国力の涵養を目指すという児玉の発想は完全に否定され、海軍は軍拡に励んだ。
元海軍将校で戦後作家として海軍批判を展開した千早正隆氏は次のように言っている。「極論すれば、米国海軍という仮想敵は、日本海軍がその兵力を増強するための目標敵であった」(脚注60)。当時、海軍としても太平洋をはさんだはるかかなたの対米戦争など考えてもいなかったのである。
こうして「わが国は、国家経済改善の努力も棄て、対米和平の道の模索すらなく、ひたすら日米戦に向かって戦備増強の道をひた走る」ことになった(脚注55)。
ワシントン体制
一九二一年に日英同盟解消が決定される(脚注61、62)。日英同盟こそ日露戦争で日本を支えた国際秩序の枠組みである。日英同盟によって日本の国際的地位は高まった。
そもそも極東以外の植民地に関する紛争で忙しかった英国は、一九〇二年当時、極東の安全保障は日本を利用し露を牽制することを選んだ(脚注61、63)。時は移って一九二一年、米は露よりも日本を牽制する方向性を英に提案。英国は、日本より米国と組むことを選択したのである。
こうして、アジア・太平洋地域の国際秩序は「ワシントン体制」という枠組みで維持しようということになる(脚注62、64)。
ワシントン体制とは、一九二一年から一九二二年にかけて米国ワシントンで話し合われ締結された三条約を基礎としている。日米英仏の四カ国条約、ワシントン海軍軍縮条約、日米英仏蘭白伊葡中の九カ国条約である(脚注62、64〜66)。
本体制は欧米諸国、特に米国の明確な意図があった。支那大陸に関する権益に関して、英国を日本と引き離し、日本の勢力拡大を抑えようというものである。
当時、ワシントン体制を立憲民政党内閣の幣原喜重郎外相らが受け入れた。本外交姿勢を協調外交、幣原外交と呼んだ(脚注68、69)。一九三七年まで遵守され、盧溝橋事件、第二次上海事変、南京攻略戦に至って破綻を迎えることになる(脚注44、70、71)。
破綻を迎えた原因を、幣原外交を弱腰外交と非難し暴走した帝国陸軍に求める声がある。幣原による協調外交を称え、ワシントン体制を絶対視する傾向もある。しかし、ワシントン体制には根本的な間違いが二つ存在していた(脚注66)。
一つ目は、中華民国の国境を明確に定めず、その領土保全をうたってしまったことである。清朝時代、支那大陸には漢民族の他に、モンゴル人、満州人、チベット人、回教徒、トルキスタン人などがいた。ワシントン体制は、それぞれの独立権を漢人の中華民国に譲渡したものと見なしてしまった。
これは現代のチベット、新疆ウイグル地区などの独立問題、その武力制圧、弾圧、人権問題に繋がっている。
もう一つは、ソ連がワシントン体制に組み込まれていないことである。それを良いことにソ連は、国民党に多大な援助を与えた。自由に振る舞って支那大陸の権益を獲得した。しかも一九二四年には、外蒙古を独立させてソ連の影響下に置いた(脚注72)。
ソ連が衛星国を誕生させても支那の主権を奪ったという強い非難は聞こえて来なかった。その九年後に日本が満州国を独立させ影響下に置くと、国際連盟は日本を強く非難し日本は連盟を脱退することになる(脚注73、74)。
これは日本にとって大変不公平と感じても良いと思われる状況であった。当時、米国などが一貫して親露親ソであったことは他にも例がある。ポーランドとフィンランド、バルト三国に関してだ。
一九三九年、独ソ不可侵条約を結んだ直後に、西から独が東からソがポーランドを攻めて分割してしまった(脚注75、76)。一九四〇年三月と六月、ソ連はフィンランドの一部とバルト三国をそれぞれ併合する(脚注77、78)。
フィンランドに侵攻したときは国際連盟がソ連を除名した。しかし、ソ連がバルト三国に四十万の兵を送って併合した時点で、英米仏はソ連に非難すら浴びせていない。彼らはソ連と敵対することはなく、却ってナチスドイツと戦うために共産主義勢力と手を組んでしまう(脚注79)。
ソ連だけではない。英米仏蘭白葡西(脚注67)などは南米、アフリカ、アジアを散々侵略し分割してきたではないか。要するに日本から見ると、国際連盟と米国はダブルスタンダードであった。要するにアンフェアなのである。
話は一九三〇年代にもどるが、日本は陸軍が主体となってワシントン体制打破に動く。満州事変と満州国建国である(脚注73、80)。ソ連と共産主義の脅威に対して、安全保障上やむを得ない最低限の対抗措置としてである(脚注81、82)。少なくとも陸軍はそう主張する。政府としても追認する。
米国との決定的対立へ
日米の対決は次第に避けられないものとなる。そして決定的なものとなる。
まず、一九三七年の盧溝橋事件、第二次上海事変、南京攻略戦が起こる(脚注44、70、71)。これらに端を発する支那との戦争は泥沼化する。日本を抑えつけ中国から追い出そうという米国の政策はうまく行かない。
図10 日支事変の勢力図
ピンク部分が日本軍の支配地域。http://ja.wikipedia.org/wiki/日中戦争より
日本は独伊と提携する道を選択する(脚注83、84)。欧州で戦争が始まる。独ソによるポーランド侵攻である(脚注76)。
一九四〇年には矢継ぎ早に大きな出来事が起こる。日本軍が独の影響下にある仏ヴィシー政権の合意のもとで北部仏印進駐を行なう(脚注85)。日独伊三国軍事同盟が締結される(脚注86)。米国による日本への屑鉄と鉄鋼の禁輸が決定される(脚注87)。
翌一九四一年七月、日本軍は南部仏印に進駐する(脚注88)。米国による石油の全面禁輸が決定される。日本への完全な経済封鎖である。日米の対決がいよいよ現実的になる。
米英蘭は強硬姿勢をつらぬき日本を経済封鎖する(ABCD包囲網:脚注87)。このような措置に関して同時代の人は次のように書いている。
当時の米駐日大使、ジョセフ・グルーは、「もし日本が、南方における主導権を軍隊によって追求しようとするならば、日本は直ぐにABCD諸国と戦争になり、疑問の余地なく敗北し、三等国になるであろう」と日記に書いた(脚注89)。
英国の戦史家リデル・ハートは、日本資産凍結や経済封鎖について、「このような措置は…日本を戦争に追い込むことは必定だった」「いかなる国にも…このような要求を容れることは不可能であった」「日本が4ヶ月以上も開戦を延期し、石油禁輸解除の交渉を試みていたことは、注目に値する」と評した(脚注90)。
英国のフラーという人は、「経済戦争の宣言であり、実質的な闘争の開始であった」と述べた。また、ローズベルトはチャーチルとの大西洋会談において「私は決して宣戦布告をやるわけにはいかないでしょうが、戦争を開始することはできるでしょう」と述べたとしている(脚注91)。
フラーは次の話も紹介している。「われわれの共同禁輸政策は確実に、日本をして平和か、戦争かの瀬戸際に追いやりつつあります」という書簡を、チャーチルはローズベルトに後日送った、と(脚注92)。
これらは米英蘭が日本を戦争に追い込んだという証言である。
対米戦争の勝算
米国政治学者、ジョセフ・S・ナイ・ジュニアは日本の指導者の気持ちを次のように表現した。「日本を抑止しようとするアメリカの努力は破綻をもたらした。平和という選択肢は、戦争に敗れるよりもひどい結果をもたらすと日本の指導者達は考えていた」と(脚注93)。
日本に残された石油の備蓄は民間・軍事をあわせても二年分。日本の指導者たちから見ると、座して死を待つか立ち上がって戦うかの選択を迫られるところまで追いつめられた(脚注94)。
一九四一年九月、時の近衛文麿首相は山本五十六連合艦隊司令長官に対米戦の勝算を訊ねる。山本は、「一年か一年半は見事に戦って見せる。だがそれ以降のことはわかりかねる」と答えたとされる(脚注95)。
一九四一年後半、対米和平か戦争かで対応を話し合うたびに、政府も陸軍も海軍に見通しを聴く(例えば荻外荘会談、脚注96)。三十余年も前から、米国は海軍担当と決まっていたのである。永年莫大な予算を獲得してきた海軍にはメンツがかかっている。「勝てません」「戦いません」とは死んでも言えない。
図11 荻窪会談
荻窪にある近衛文麿の別荘「荻外荘」にて。右から陸軍大臣東條英機、
海軍大臣吉田善吾、外務大臣松岡洋右と(1940年7月19日)
そもそも海軍は米国と戦う気はなかった。帝国海軍の威光、すなわち省益優先で当時世界第三位の海軍力を整備してきただけだった。そのために米国を仮想敵国としていただけだった。その米国との決定的な対立を迎えたのである。
恐らく話合いのテーブルには、十数年余にわたる海軍の予算額が並んだ資料が乗っていたことだろう。今さら後には引けない。山本にゲタをあずけるしかない。そのように海軍関係の出席者はハラをくくっていたのだろう。
海軍が追求したのは国益ではない。省益である。優先させたのは兵士たちの命ではない。自分たちのメンツである。こういう瑣末なものが基盤になって、彼らは杜撰な見通しで勝算なき大バクチを打った。付合わされる我々はたまったものではない。(つづく)
脚注
22)日露戦争:http://ja.wikipedia.org/wiki/日露戦争
44)盧溝橋事件:http://ja.wikipedia.org/wiki/盧溝橋事件
47)日支事変、支那事変、日華事変、日中戦争:http://ja.wikipedia.org/wiki/支那事変、宣戦布告を経ていないので事変と呼びならわしている。戦争とするには両国とも抵抗があった。特に蒋介石の中国国民党政府は、米国から大量の武器と資金の援助を受けていた。戦争に発展した場合、当時の米国は中立を宣言せざるを得ない。国際法上は中立国による武器の援助が許されていなかった。蒋介石政府は米国からの武器援助が絶えるのを恐れていたわけである。
53)児玉源太郎:http://ja.wikipedia.org/wiki/児玉源太郎:日露戦争開戦前には台湾総督のまま内務大臣を務めていたが、 明治36年(1903年)に対露戦計画を立案していた参謀次長の田村怡与造が死去し、大山巌参謀総長から特に請われて降格人事でありながら、両職を辞して田村の後任を引き受ける。日本陸軍が解体する昭和20年(1945年)まで、降格人事を了承した人物は児玉ただ一人である。日露戦争のために新たに編成された満州軍総参謀長をも引き続いて務めた。児玉は国際情勢や各国の力関係を考慮に入れて戦略を立てることの出来る広い視野の持ち主であった。日露戦争全体の戦略の立案、満州での実際の戦闘指揮、戦費の調達、アメリカへの講和依頼、欧州での帝政ロシアへの革命工作、といったあらゆる局面で彼が登場する。当時のロシアは常備兵力で日本の約15倍、国家予算規模で日本の約8倍という当時世界一の超大国であり、日本側にとって圧倒的不利な状況であったが、それを覆して日本を勝利に導いた功績は高く評価されている。また、児玉ケーブルと言われる海底ケーブルを日本周辺に張り巡らしたことで、現代戦で最も重要と言われる情報のやり取りを迅速に行えるようにした。このことで、日本連合艦隊は、大本営と電信通信が可能となって、大本営が自在に移動命令を出せるため、日本海海戦のためだけに、全軍が集結することが可能になった。アメリカ国防総省を中心に唱えられている最新の軍事ドクトリンの一つネットワーク中心の戦い(Network-centric warfare,NCW)を100年も前に実現させて、日本海海戦の大勝利をもたらした功績もきわめて大きい。今日では東郷平八郎、大山巌、乃木希典らと共に日露戦争の英雄として有名である。
54)希代の逸材:別項目で詳述する。
55)佐藤晃「帝国海軍が日本を破滅させた」(上)光文社ペーパーバックス、2006年。
56)陸軍なら現実的:事実、一九四五年八月、大東亜戦争終了間際とポツダム宣言受諾後にひどい形で何倍にもなって仕返しされるわけである。
57)国益よりも…省益の方を:今なお問題とされている官僚機構の致命的欠点はこの頃から既に露見していた。
58)佐藤晃「帝国海軍が日本を破滅させた」(下)光文社ペーパーバックス、2006年。
59)帝国国防方針:http://ja.wikipedia.org/wiki/帝国国防方針:日本陸軍が陸海軍作戦の統合的な国防方針を策定しようと発案したことがきっかけとなり、明治40年4月4日明治天皇により裁可されたのが最初となり、以後国際情勢の変化などに応じて変更された。しかし、事実上は日本陸軍はロシア、日本海軍はアメリカ合衆国を仮想敵国とする事態は変わらず、その国防思想を統一するという当初の狙いは不十分にしか達成されなかった。
60)千早正隆「日本海軍の戦略発想」中公文庫、1995年。
61)日英同盟:http://ja.wikipedia.org/wiki/日英同盟
62)四カ国条約:http://ja.wikipedia.org/wiki/四カ国条約
63)極東以外の植民地に関する紛争で忙しかった英国:http://ja.wikipedia.org/wiki/ボーア戦争
64)ワシントン体制:http://www.iuj.ac.jp/faculty/tshinoda/IV.html
65)ワシントン海軍軍縮条約:http://ja.wikipedia.org/wiki/ワシントン海軍軍縮条約
66)九カ国条約:http://ja.wikipedia.org/wiki/九カ国条約
67)日米英仏蘭白伊葡中:蘭はオランダ、白はベルギー、葡はポルトガルである。
68)幣原喜重郎:http://ja.wikipedia.org/wiki/幣原喜重郎
69)幣原外交:http://ja.wikipedia.org/wiki/幣原外交
70)第二次上海事変:http://ja.wikipedia.org/wiki/第二次上海事変
71)南京攻略戦:http://ja.wikipedia.org/wiki/南京攻略戦
72)外蒙古を独立させてソ連の影響下に置いた:http://ja.wikipedia.org/wiki/モンゴル人民共和国
73)満州国:http://ja.wikipedia.org/wiki/満州国
74)国際連盟:http://ja.wikipedia.org/wiki/国際連盟
75)独ソ不可侵条約:http://ja.wikipedia.org/wiki/独ソ不可侵条約
76)ポーランドを攻めて分割:http://ja.wikipedia.org/wiki/ポーランド侵攻
77)フィンランドの一部:http://ja.wikipedia.org/wiki/冬戦争
78)バルト三国:http://ja.wikipedia.org/wiki/バルト三国
79)ナチスドイツと戦うために共産主義勢力と手を組んでしまう:一九三六年、既に日本は共産主義勢力と戦うために逆にナチスドイツと組んでしまっていた。一九四〇年の段階では、欧州戦線における独の快進撃もあって陸軍が独と組むことを強力に主張。六月に日独伊三国軍事同盟が締結。
翌一九四一年二月に日ソ中立条約が締結され、六月には独ソ戦が勃発する。日本政府部内では、一九四一年七月、陸軍による「ソ連を挟み撃ちにする」という北方作戦と海軍による「南方作戦」が主張され、結局両方の案を容れて二正面作戦が作文される。日独伊三国軍事同盟の骨抜きを画策していた海軍が、南進論そのままに南部仏印進駐を実行。これが米の態度を決定的に硬化させ、対日石油全面禁輸に至る。
ソ連との関係では、結果的に、当面はソ連と戦わずという点で米英に合わせることになった。しかし、独伊と手を結んで米英と戦い抜くのか、それとも日独伊三国軍事同盟を形骸化して対米英和平で行くのか、意思統一できていない中途半端な状態だった。海軍と陸軍の主張を足して二で割るような作文をし、それぞれ勝手に動くのに任せるしかなかった。しかも海軍の南進政策が対米英和平交渉に決定的な打撃を与える。日本は統一的かつ主体的に動けなかった。それぞれの主張をする人が勝手に動いてしまった。みんながまとまって国難に対応できなかったのがいただけない。
国民の生活より党利党略を優先して、大事なことを話合いさえもしない今の国会と本質的に違いがないように思える。
80)満州事変:http://ja.wikipedia.org/wiki/満州事変
81)もともと、満州(東北三省)は女真族の支配地であった。漢民族が立ち入らない化外の土地だった。清も自分たちの出身地方だということで、漢人の立ち入りを制限していた。しかし、清末期になると華北、華中から漢人が移住し開拓を始める。日露も満州に権益を獲得して開発し始めると、袁世凱は自分の影響力を扶植しようとした。馬賊上がりの張作霖がその後を継いだ。
関東軍の石原莞爾らは蒋介石の影響力が満州にまで及ぶことを怖れた。ソ連共産主義勢力に対する防衛拠点とする理由以外にも、漢民族と満州族を分離することが満州事変と満州国建国の理由となっている。
図12 北伐時代の支那大陸勢力図
北伐後の中華民国の情勢。藍色の部分は蒋介石率いる南京国民政府の支配が強い
領域。ピンクの部分は地方の軍閥の支配が強い領域。満州は張学良の奉天派支配地
域、山西省は閻錫山の山西派支配地域(藍色地域の北西部)、陝西省・寧夏等の北
西部は馮玉祥の西北派支配地域(山西派の西隣り)、広東省・広西等の南部は李宗仁
の新広西派支配地域(香港島の北からその西側地域)、雲南省は竜雲の雲南派支配
地域(ビルマ、インドシナに接する地域)。http://ja.wikipedia.org/wiki/北伐より。
支那大陸は内戦の真っ最中だった。南京国民党政府も内戦の当事者の一つに過ぎな
かった。
82)満州事変と満州国独立には他のファクターもある。
当時の支那大陸では、各地で軍閥が支配し戦争を繰り返していた。孫文の辛亥革命の後を継いだ国民党勢力もその中の一つにすぎなかったと言って良い。国民党は南京を拠点としていた。一九二〇年代に国民党政府軍は華北の軍閥との戦争を開始する。北伐である。北伐の影響は満州にも及びそうであった。
他方、日本と支那の間に不穏な空気が流れ始める。一九三一年六月に日本の軍人ら四人が支那軍に銃殺され遺体が焼き捨てられた。中村大尉殺害事件である。同年七月には朝鮮人の満州入植者が支那人に襲われ、日本領事館警察官との衝突も起きた。万宝山事件である。
漢民族と満州族を分離することが、関東軍首脳にとって日本が取りうる最善の策だった。満州事変と満州国独立の意図は何だったのか?次の三つだろう。
1)野放しのソ連に対抗し共産主義の防波堤となること
2)漢民族と満州族の分離
3)治安の維持
特に1)と2)はワシントン体制の本質的誤謬を突いた形となっている。共産主義に甘く支那大陸の複雑さを理解しない国際世論は、一方的に日本を非難することになった。
83)日独防共協定:http://ja.wikipedia.org/wiki/日独防共協定
84)日独伊防共協定:http://ja.wikipedia.org/wiki/日独伊防共協定
85)北部仏印進駐:http://ja.wikipedia.org/wiki/北部仏印進駐
86)日独伊三国軍事同盟:http://ja.wikipedia.org/wiki/日独伊三国軍事同盟
87)ABCD包囲網:http://ja.wikipedia.org/wiki/ABCD包囲網
88)南部仏印進駐:http://ja.wikipedia.org/wiki/南部仏印進駐
89)Joseph C. Grew, Ten Years In Japan, Hesperides, 2006.
90)B.H.Liddell.Hart, History of the Second World War, Dacapo Press edition, 1999.
91)J.F.C.Fuller, The Second World War, Dacapo Press edition, 1993.
92)J.F.C.フラー 『制限戦争指導論』 原書房 2009年。
93)ジョゼフ・S・ナイ・ジュニア 『国際紛争 理論と歴史』有斐閣、2007年。
94)座して…:海軍軍令部総長永野修身が御前会議で奏上した言葉に「座して死ぬよりも、断じて打ってでるべし。アメリカに屈しても亡国、たたかっても亡国、どっちみち国が滅びるなら、最後の一兵までたたかって負けるべし、日本精神さえ残れば、子孫は、再起、三起するであろう」「米英への宣戦布告は、放っておけば死ぬ病人に手術を施すようなもの、手術が成功する保証はありませんが」というものがあるそうだ。「大雑把でとても開戦理由とはいえない」と新野哲也氏は「日本は勝てる戦争になぜ負けたのか」(光人社、2007年)という本の中で述べている。
95)山本は…答えたとされる:http://ja.wikipedia.org/wiki/山本五十六
96)荻外荘会談:http://ja.wikipedia.org/wiki/近衛文麿
附)ワシントン体制発足から日米開戦直前までのミニ年表を記す。
一九二一年 日英米仏四カ国条約にて日英同盟解消決定 (脚注60、62)
一九二二年 ワシントン海軍軍縮条約 (脚注63)
九カ国条約 (脚注64)
一九二四年 排日移民法 (脚注33)
一九三六年 日独防共協定 (脚注80)
一九三七年七月 盧溝橋事件 (脚注43)
八月 第二次上海事変 (脚注68)
十二月 南京攻略戦 (脚注69)
一九三七年 日独伊防共協定 (脚注81)
一九三九年九月 独ソによるポーランド侵攻 (脚注74)
一九四〇年一月 日米通商航海条約の失効
三月 冬戦争、フィンランドの一部ソ連に併合 (脚注77)
六月 ソ連バルト三国を侵略併合 (脚注78)
九月 日本軍の北部仏印進駐 (脚注82)
九月 日独伊三国軍事同盟 (脚注83)
一九四一年 米国による屑鉄・鋼鉄禁輸 (脚注83)
一九四一年六月 独ソ戦勃発
七月 日本軍の南部仏印進駐 (脚注85)
一九四一年 米国による石油全面禁輸 (脚注83)
対米和平交渉
ハルノート (脚注50)
(9485文字)
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2011年1月28日金曜日