さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策
What should we do now? Explore the history of Japan and the world.
〜 PEKのひとりごと PEK’s soliloquy 〜
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〜 PEKのひとりごと PEK’s soliloquy 〜
xiii’’’’’’’’’’’’’)番外編12 日本滅亡と帝国海軍(Ⅲ)真の敵を見誤る
崩れるパワーバランス
日露戦争や第一次世界大戦の後、米国には対日和平という選択肢もあった。当時、日本は議会制民主主義の国だった。決して「軍国主義」と言えるような時代ではなかった(脚注36、37)。
国内でも排日運動が盛んになった米国は、やがて狙い通り日本を支那大陸から追い出すことに成功する。支那の市場は米国のものになる筈だった。
しかし、第二次世界大戦後に待ち受けていた世界は米国が期待するものではなかった。
満州はソ連の手に渡る。ソ連が満州を引き渡すのは、もちろん毛沢東の共産党に対してである。日本も手を携えて建国し十二年経った満州国の全遺産は、中国共産党がそっくり受け継いだ。共産党は旧満州国を拠点にする。国民党側からの攻撃を跳ね返し、逆に国民党側を攻撃する。
国共内戦の再燃である。約四年かけた内戦の結果ついに毛沢東側が勝利する。米国の支援を受けた蒋介石は台湾に逃げ、一九四九年に中華人民共和国が成立する。
第二次世界大戦終了まで、日本はソ連と共産主義に対する防波堤の役割を果たしていた。その日本を叩き潰し支那大陸から追い出したのである。パワーバランスは完全に崩れた。
その当然の帰結が支那の完全な喪失となって実現するのである。米国のショックと落胆振りは相当なものだった。日本の遺産ともいえる満州国は共産主義者に実に有効な形で利用された。そのことに米国はほとんど気が付いていないだろう。
戦史研究家の佐藤 晃氏は述べる(脚注38)。
「長期にわたる冷戦の末、アメリカはソ連には勝利したが、中国はいまなお地球上で、もっとも厄介な国であり続けている。そして、あれほど目の仇にした日本は、アメリカの最大の同盟国である。
当時のアメリカ極東政策の虚しさを思わせる現実が、いま目の前に展開している。
これはなにも結果論ではない。大正末期から昭和初期にかけての対日政策には、和平の選択肢もあったはずである。だが、アメリカのソ連への認識の甘さと、日本憎しの過剰な一念が、その選択肢を忘れさせたということである」と。
支那喪失後も、米国はアジアで共産主義勢力と直接的あるいは間接的に戦うハメになる。一九五〇〜一九五三年の朝鮮戦争と一九五〇〜一九七五年のインドシナ戦争後半およびベトナム戦争のことである(脚注39〜41)。
欧米支配と人種差別
人種差別が色濃く残っていた時代である。西欧列強によるアジア、アフリカ植民地支配は「悪」どころか、かえって「善」だった。人種差別と欧米型植民地主義。日本はその両方に異を唱えていた。
日露戦争と第一次世界大戦以降、次の具体的な争点が次第に浮かび上がってくる。人種差別と欧米による植民地支配のことである。「争点」とはならない状態に留まらせようという側と目に見える「争点」にしようという勢力があった。文明の対立が始まったのである。
当時の歴代米国大統領とって、人種差別と欧米植民地支配、そして米国の極東政策に異を唱える日本は、自分の言うことを聞かない厄介な存在だった。
特に、一九三三〜一九四五年という長きにわたって米国大統領であったのはフランクリン・ローズベルトである(脚注42)。彼は決して親日ではなかった。敵視していたとも言われる。日本人としても、彼が自分たちを目の仇にしていると感じていた。
図5 フランクリン・ローズベルト 図6 戦時中の風刺似顔絵
「漫画」一九四二年二月号表紙
また、フランクリン・ローズベルトはもともと親露、親支那であった。のみならず共産主義に対しては全く無警戒だった。話が通じると思っていた。日本が極東で果たしていた役割など、理解しようとも思わなかったし理解できるものではなかった。
そういった無理解が日本を大東亜戦争に追いやった。極東のパワーバランスを壊した。戦後共産主義が蔓延(はびこ)った。六十七年余経っても未だに解決できない諸問題が残った。これも真実の一面である。
今ふりかえると次のように言って良いかもしれない。歴史の歯車は大きく誤った方向に廻った。我々と世界中の人々は苦しみ続ける原因の一つがここにある、と。
また、次のようにも言えるだろう。戦争が日本側の対応のまずさだけに起因しているわけではない。安全保障はそんなに単純なものではない。米国の対応にも非常に重要な要因があった、と。
日米は戦う必要などなかった
当時、民主的な政治体制を持っていた日本を米国は敵対視した。米国の対日強硬路線は、結果として良いことを生まなかった。
1)日本の安全保障を危うくすることで、日本を全体主義的な国にしてしまった。
2)一党独裁の全体主義国家ソ連を援(たす)けた。
3)支那大陸に中華人民共和国を成立させてしまった。
4)共産主義国家をたくさん生み出し、戦後長く続く冷戦時代を招くことになった。
米国も欧州列強も、結局、支那に何の利益を得ることもできずに一掃されることになる。
一九一九年にコミンテルン(脚注43)が結成され、ソ連は矛先を極東に向けてきた。翌一九二〇年にモンゴル人民共和国が樹立。中国には毛沢東の中国共産党が結成されコミンテルンに加盟した。
露の最近の情報公開により、コミンテルンの策謀が少しずつ明らかになっている。その方針は明快だ。中国国民党と日本を戦わせること。日本と米国を戦わせること。日本の対ソ連宣戦布告をさせないこと。日本を大陸から追い出すことである。
結果として、国共合作も、日本の対ソ連政策も、日米が戦うことも、日本を大陸から追い出すこともコミンテルンが立てた方針通りになったという。
また、盧溝橋事件の発端となった発砲事件も、コミンテルンによる陰謀説が存在する(脚注44、45)。客観的に見て、当時の日本は、蒋介石政権も黙認していた満州に専念する方が得策だった(脚注46)。華北や華中に攻め入っても全くメリットはなかった。
誰が日支事変を起こしたのか(脚注47)?帝国陸軍の現地部隊が暴走したからだ。そう喧伝する人々がいる。しかし、盧溝橋事件や上海事変の直前に、支那の人々が日本に対してどんなことを行なっていたか?彼らの主張からは、その一連の事実がスッポリと抜け落ちている。
日本は挑発に継ぐ挑発を受けた。その中で、現地の良心的な指揮官たちも本国政府も冷静に対応しようとしていた(脚注48、49)。日本は連続するテロ攻撃を仕掛けられ、挑発され、支那大陸の内戦に無理やり引きずり込まれた。そう言っても過言ではない。
図7 第二次上海事変で租界地区を防衛する日本海軍特別陸戦隊
ハルノートを実質的に執筆したハリー・ホワイトなる人物がソ連のスパイだったとも言われている(脚注50、51)。到底呑めないような強硬な最後通牒を突きつけて日本が米国に宣戦布告するようしむけたという(脚注52)。
嫌がる日本を、日支事変や対米戦争に引きずり込んだのは、コミンテルンの策略だったと言われる。本来は、日米蒋が共同で対ソ連共同戦線を張るほうが良かっただろう。
日本にも対米和平の選択肢があった。
1)ハリマンの提案を一部受け入れる。
2)マーシャル諸島やカロリン諸島を捨ててでも満州に対する日本の権益を認めさせ、対ソ連の共同戦線を張る。
3)対米敵視政策はとらずに軍拡競争をしない。
4)共同で蒋介石の中華民国を支援し中国共産党に対抗する、など。
日本と米国は戦う必要など全くなかった。お互いに真の敵を見誤ってしまった。どのように平和が失われたか?これからに役立つ明確な教訓を得たいものである。(つづく)
脚注
36)日本は議会制民主主義の国だった。決して「軍国主義」と言えるような時代ではなかった:日本が軍国主義の徴候を明らかに見せ始めたとするならば、それは、要人暗殺テロや五一五事件などが起こった一九三二年頃からである。その前までは、大正デモクラシーと言われる時代、二大政党による政権交代が実現した時代だった。
37)坂野潤治、田原総一朗「大日本帝国の民主主義-嘘ばかり教えられてきた」小学館、2006年。
38)佐藤晃「太平洋に消えた勝機」光文社ペーパーバックス、2003年。
39)朝鮮戦争:http://ja.wikipedia.org/wiki/朝鮮戦争
40)第一次インドシナ戦争:http://ja.wikipedia.org/wiki/第一次インドシナ戦争
41)ベトナム戦争:http://ja.wikipedia.org/wiki/ベトナム戦争
42)フランクリン・ローズベルト:http://ja.wikipedia.org/wiki/フランクリン・ルーズベルト
43)コミンテルン:http://ja.wikipedia.org/wiki/コミンテルン
44)盧溝橋事件:http://ja.wikipedia.org/wiki/盧溝橋事件
45)盧溝橋事件:中国共産党が日中双方の陣営に銃弾を撃ち込んだのが始まりとされる。
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y-2--9&d=0515&f=national_0515_034.shtmlには、当時「劉少奇が盧溝橋事件を起こした」「劉少奇が盧溝橋で、日本軍と戦った」との記述が「戦士政治読本」と言うパンフレットに確かに書かれ、共産党支配区域で配られていた、とある。
46)蒋介石も黙認していた満州国:http://ja.wikipedia.org/wiki/塘沽協定:1933年5月31日に結ばれた満州事変の停戦協定。河北省塘沽(たんくう)で締結された。1932年9月18日に始まる満州事変は、この協定をもって一応の終結を迎えた。
47)日支事変、支那事変、日華事変、日中戦争:http://ja.wikipedia.org/wiki/支那事変:宣戦布告を経ていないので事変と呼びならわしている。戦争とするには両国とも抵抗があった。特に蒋介石の中国国民党政府は、米国から大量の武器と資金の援助を受けていた。戦争に発展した場合、当時の米国は中立を宣言せざるを得ない。国際法上は中立国による武器の援助が許されていなかった。蒋介石政府は米国からの武器援助が絶えるのを恐れていたわけである。
48)現地の良心的な指揮官たちも本国政府も冷静に対応していた:
http://ja.wikipedia.org/wiki/盧溝橋事件、http://ja.wikipedia.org/wiki/第二次上海事変、http://ja.wikipedia.org/wiki/日中戦争:
盧溝橋で日本軍と衝突した国民革命軍第二十九軍は、盧溝橋事件までの約六ヶ月間だけでも、邦人の不法取調べや監禁、暴行、軍用電話線切断事件、日本・支那連絡用飛行の阻止など50件以上の不法事件を起こしていた。盧溝橋事件前、第二十九軍はコミンテルン指導の下、中国共産党が完成させた抗日人民戦線の一翼を担い、国民政府からの中堅将校以外にも中国共産党員が活動していた、と記事にある。
盧溝橋事件、第二次上海事変、南京占領、すべて支那側の挑発が先にあった。日本軍への最初の銃撃から始まる盧溝橋事件(7月7日)、大紅門事件(7月13日)、停戦協定細目成立後の日本軍への一斉射撃(7月20日)、郎坊事件(7月25日)、広安門事件(7月26日)など。日本軍による華北での総攻撃は7月28日で、盧溝橋事件のあと三週間ほどあらゆる挑発に堪えていたことになる。日本側は、元外交官で実業家の船津振一郎氏を通して、大幅譲歩の和平提案を国民党政府に行なった(8月1日)。しかし、第一回の話合い当日、支那側が起こした別の事件により頓挫してしまう(8月9日)。凄惨なテロと国民党正規軍精鋭部隊による攻撃が続く。悲惨を極めた通州事件(7月29日)、大山中尉殺害事件(8月9日)、上海租界の日本人居留民と海軍陸戦隊への攻撃(第二次上海事変、8月13日)、支那空軍機による上海租界空爆と各国民間人被害(8月14日)など。
第二次上海事変でも日本海軍陸戦隊の堅忍自重ぶりは海外のメディア(ニューヨーク・タイムズ、ニューヨーク・ヘラルドトリビューン、上海英字紙)から認められているほどだった。上海派遣軍が上海上陸に至ったのは8月末で、それまで多くの犠牲を支払いつつ、3万人の支那軍をわずか4千人の海軍陸戦隊が守り通したことになる。8月18日の英米仏による休戦提案を、国民党政府が協定違反による開戦意思を持っている以上日本も戦わざるを得ないと主張。11月2日からの独トラウトマンによる和平工作(第一次トラウトマン和平工作、中国側に有利な提案内容)が試みられるも支那側が回答を引き延ばす。11月12日の上海占領、12月13日の南京陥落に続いて行ってしまう。
支那側は横暴な日本、侵略される支那大陸のイメージを国際社会に宣伝する。日本の「暴支膺懲(ぼうしようちょう=暴虐な支那を懲らしめる)」「一撃後和平」の構想など、国際社会では顧みられることがなかった。「支那=一方的な被害者」「日本=加害者、侵略者」とレッテルを貼られることになる。空軍爆撃による民間人巻添えについても、そもそも支那空軍が上海租界を空爆し2千人以上の各国民間人を死傷させたことから始まった。しかし、その事実はどこかに忘れ去られ、その後の南昌、南京、広徳、杭州、漢口爆撃、重慶遷都後の重慶爆撃だけが非難されるところとなる。どれもこれも、日本が一方的に勝ち進めていったからか。なお、自軍が日本軍の前に敗走を重ねる原因を「日本軍に通じる漢奸」の存在によるものとして、蒋介石は大規模な「漢奸狩り」を開始(8月下旬)した。4000名以上の支那人が処刑されたという。
日本側では「一撃後和平」という意見が主体だった。しかし、コミンテルンのスパイだった尾崎秀実(おざきほつみ)を含む進歩派の陸軍官僚らを中心に、強硬に出る勢力が主体となった。近衛文麿首相(当時)は抵抗し切れなくなる。「一撃後和平」という方針通り、もう少し和平への取り組みを熱心に出来なかったものか。支那側では、国民党政府軍がいつも停戦協定に違犯する。約束を守らずに日本軍への挑発と攻撃を繰り返した。不誠実さはここに際立っている。挑発行為や攻撃は侵略者に対する正当な反抗だと主張するが、これほどの挑発をしたのは日本に対してだけである。支那は英米独仏露の列強に対してはこれほどの挑発をしなかった。
日本は日清戦争でも日露戦争でも、自国だけでなく極東の安定と平和を実現するために血を流して戦った。二つの戦いの後も自重と忍耐をもって振舞った。露の脅威から朝鮮半島と満州を守ることが、日本、満州、支那、朝鮮半島という極東全体の安全保障のためになくてはならい行動だと信じて血を流した。結果として、日本は当時の極東全体における安全を保障した。支配地域の治安を維持し、安定を確保した。産業革命を移植して経済を活性化し、人口も増やした。匪族や兵匪、貴族や官吏など特権階級の苛斂誅求に苦しんでいた当時の住人たちは、ようやく人並みの生活ができるようになった。しかし、支那や朝鮮からは尊敬もされず感謝もされず却って侮られ、蔑まれ、嘲られるだけ。却って日本が残虐で自分たちは日本側が行なった史上稀に見る苛斂誅求に苦しんでいた犠牲者と言い募られるだけ。国際世論が判官びいきだったのだろうか?日本はずいぶんと割の合わない役割を演じ続けたことになる。
支那や朝鮮は被害者で日本は加害者と言われている。しかし、以上のように見てくると、一方的に「支那・朝鮮が被害者で日本は加害者」だと本当に言えるのだろうか。日本は領土欲に目が眩んで半島や大陸を侵略したといわれる。だが、それは「フィクション」であろう。侵略を云々するならば、日露戦争敗北でようやく断念した露の南進政策の方がもっと露骨な侵略であった。露は、極東ばかりでなく西の果てでも南下政策を繰り広げていた。クリミヤ半島でトルコと戦うなど、他国領土を侵略していたではないか。日清日露戦争を戦わなければ、極東はソ連の支配に入ったことだろう。少なくとも満州と朝鮮半島は21世紀の現在に至るまでソ連-露の領土であり続けただろう。当時の日本は、露とそれに続くソ連共産主義の脅威から極東を守り続けたのである。一九四五年からの十年間を振り返るだけで、日本が抜けた空白を誰が埋めたか明白である。米国も蒋介石の国民党政権も朝鮮半島の人々も、共産主義の猛威に翻弄され苦しみ続けたではないか。
日本のみを標的にし糾弾して止まない人々がいる。歴史的事実を見よ。日本にだけ非がある。そう強硬に主張する。特に、わが国の言論界を支配しているのは他国人ではない。他ならぬ日本人である。彼ら意見に全くバイアスがかかっていないとは言えまい。まともにとりあわない方が良いだろう。比較的中立の立場で書かれた資料を読むだけで、簡単にわかる史実というものがある。彼らの意見に影響されて、同調していた自分の不勉強が恥ずかしい。悲しく憂うつな気分になる。
この注釈部分は再度別項目を立てて概説するつもりである。
49)ニューヨーク・タイムズは、現在に至るまできわめて反日的な記事を書くことで有名である。しかしその紙面に、上海事変勃発の1937年8月31日、Hallett Abend上海特派員は署名記事を寄せる。
「『外国人は日本を支持』
上海における軍事衝突を回避する試みによりここで開催された様々の会議に参加した多くの外国政府の代表や外国の正式なオブザーバーたちは皆、以下の点に同意するだろう。
日本は敵の挑発の下で最大限の忍耐を示した。日本軍は居留民の生命財産を多少危険にさらしても、増援部隊を上陸後数日の間、兵営の中から一歩も出さなかったのである。
八月十三日以前に上海で開催された会議に参加したある外国使節はこうみている。
『七月初めに北京近郊で始まった紛争の責任が誰にあるのか、ということに関しては意見が分かれるかもしれない。しかし、上海の戦闘状態に関する限り、証拠が示している事実は一つしかない。日本軍は上海では戦闘の繰り返しを望んでおらず、我慢と忍耐力を示し、事態の悪化を防ぐためにできる限りのことをした。だが日本軍は中国軍によって文字通り衝突へと無理やり追い込まれてしまったのである。中国軍は外国人の居住している地域と外国の権益を、この衝突の中に巻き込もうとする意図が有るかのように思えた』」(ジェームズ・H・ウッド「『太平洋戦争』は無謀な戦争だったのか」茂木弘道訳、2009年。訳者注より)。
50)ハルノート:http://ja.wikipedia.org/wiki/ハルノート
51)ハルノートを実質的に執筆したハリー・ホワイト:http://ja.wikipedia.org/wiki/ハリー・ホワイト
52)当時の日本はハルノートを受け入れ、支那(北支、中支)から満州に兵を引き、仏印からも撤退すれば良かった。そうすれば、米国は欧州戦線に参加する理由もなく、米英は窮地に立たされ続けた。蒋介石の国民党軍は共産党軍を壊滅させ、中国が共産化することがなかったかもしれない。ハルノートを決して最後通牒などと考えてはいけない、とも言われる。ただ、当時の米国の徹底的人種差別と日本への憎悪を考えると、そう簡単に石油やくず鉄輸出解禁には繋がらなかったかもしれない。また、支那の日本人への挑発と攻撃は執拗をきわめ、やすやすとは支那大陸から抜け出せなかっただろう。再び内戦に引きずり込まれたリクスは非常に高かった。
別の意見もある。日本は断固としてハルノートを拒絶すべきだった。それは良い結果を生んだ。ブロック経済が崩れて自由貿易圏が創設された。欧米はアジア・アフリカの植民地を失った。沢山の民族国民が独立を勝ち取った。日本は自由貿易圏の中で生まれ変わった。不思議なことに、日本は結果として大東亜戦争の目的を果たせた、というものである。
附)満州事変から日米開戦に至るまでのミニ年表を記す。
一九三一年 満州事変
一九三二年 満州国建国
一九三三年 フランクリン・ローズベルト米国大統領就任 (脚注42)
塘沽協定 (脚注46)
一九三七年 盧溝橋事件 (脚注44、45)
第二次上海事変
南京攻略戦
一九四一年 ABCD包囲網
日米和平交渉
ハルノート (脚注50)
日米開戦
(8146文字)
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2011年1月23日日曜日