さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策
What should we do now? Explore the history of Japan and the world.
〜 PEKのひとりごと PEK’s soliloquy 〜
さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策
What should we do now? Explore the history of Japan and the world.
〜 PEKのひとりごと PEK’s soliloquy 〜
xiii’’’’’’’)番外編6 強欲資本主義と日本(Ⅱ)少なかった貧富の差
強欲資本主義に関する話題を取り扱っている。日本は強欲資本主義に倣って何の利益があるのだろうか。今回は少しばかり歴史を振り返ってみよう。
欧米ほど顕著でなかった貧富の差
歴史的に見ると、日本は欧米や中国で見られるような極端な貧富の差はなかった(脚注6、7)。十六世紀中葉から行なわれた政治経済改革の結果、国内秩序は安定し富は広く分配されるようになった。
多くの人たちは読み書きができ学習意欲が高かった。国内市場が栄え、交通網も見事に張り巡らされていた。資金は、贅沢を第一と考える人たちにではなく、投資事業に意欲を持った人たちの懐の中にあった。
そもそも欧州では、貴族と平民と農奴という身分社会にあって、極端な貧富の差が存在した。貴族は大多数の国民の犠牲の上に莫大な富を蓄え奢侈な暮らしをしていた。荘厳な建物も数多の美術品のコレクションも、富と権力が極端に集中していたことの象徴である。
民衆がその日のパンにも困っていたフランス革命前、マリーアントワネットは「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」と言ったとされている(脚注8)。彼女自身は言っていないという説もあるようだが、欧州に存在していた格差社会の象徴的な言葉である。
歴代の中国でも、権力と富は皇帝と科挙を通った官吏たちに極端に集中していた。農民は奴隷状態で赤貧に喘いでいた。多くの人々が流民となり現状に不満を持つ者に利用された。現皇帝と一族などを誅殺した者が、新しい皇帝を名乗るという易姓革命が繰り返された。
ひるがえって日本ではどうだっただろう。権力はサムライが握っていたものの、その生活はいたって質素だった。藩士たちが苦しい生活を強いられているのに一人だけ贅沢はできないと、藩主とその家族ですら倹約に心がけていた。
農民も貧しかったが、ある程度の自治が任せられ自由で平和な生活が営まれていた。貧富の差はあっても欧州や中国とは比べられないほど小さなものだった。
図2 現在の世界の識字率
十八世紀の成人男性識字率の国際比較については、日本が七〇%を超え、同時期
のロンドン(二〇%)、パリ(十%未満)を遥かに凌ぎ、トロイア遺跡を発見した
ドイツ人のシュリーマンらが驚きを以って書いているという(シュリーマン著、藤
川徹訳『日本中国旅行記』新異国叢書、雄松堂書店、1982年)。ただし、識字率
一〇〇%の武家が江戸の人口のかなりの割合を占めているための上げ底という見方
もあり、地方では二〇%程度だったと言われている。ただそれでも世界的に見て高
い。(http://d.hatena.ne.jp/ts12345/20080327 より)
江戸時代のサムライは政を支える事務官だった。平和な時代が続いたので領地は増えず、収入の伸びはほとんどないか限定的だった。サムライは質素な暮らしをしていたが、ますます貧乏になった。サムライは権力を持っていたが、富は所有していなかった。
士農工商の身分制度の末端に位置づけられていた商人は、制約の多い社会の中にあって比較的自由に発想を展開し、職人(工)と協力して三千万人の市場に受け入れられる商品を流通させていた。
若干の富の集中はあったものの、商人は贅沢とはほど遠く慎ましい暮らしをしていた。むしろ、新しい投資事業に意欲を持って備えていた。
商人は富を手にしていたが、権力はなかった。権力はサムライに、富は商人にと分散されていた。結局、日本ほど経済的に上層の人と下層の人の差が極端でない国は、世界のどこの国や民族にもなかった。
日本で革命が起きなかったのは極端な貧富の差が存在しなかったからで、革命の必要がないほどだったのである。本ブログで何度もご登場願っている松原久子氏は述べる(脚注6)。
「住民の間で個々の集団の格差があまりにも極端になると、その社会は不安定になるというのは、古くから日本人の考え方に深く根ざしたいわば常識のようなものである。
日本人の私は、なぜ他の国々はこのことに気がつかなかったのか、理解に苦しむ。鎖国時代においては、この考え方が国の基本指針にさえなっていた。
この影響は、現代の日本企業の給与体系にも見ることができる。欧米では、企業幹部の給与が、一般労働者や一般社員の給与の百倍、千倍ということも珍しくない。日本では、伝統的に幹部の給与は低いといわなければならない。
企業で最高の給料をもらっている人でも、その額がその会社の新入社員の初任給の十倍、あるいは十五倍以上ということはない」と。
松原氏がこの文章を書いた二十年前と今とでは実情が変化したかもしれない。欧米追従主義で、某自動車メーカーの外国人CEOなどのように多額の報酬を手にするようになった例も見られる。
しかし、日本の経営者が節度を守った報酬で会社と社会に貢献していることは、次の例をひくまでもなく広く認められている。
昨年、米国政府の支援を受けることになった自動車会社の経営者の報酬と行動が批判された。政府から支援を受けようとしているのにもかかわらず、多額の報酬を受け取り続け、自家用ジェットで公聴会に来るなどけしからん、というわけである。
他方、日本の電気メーカーの経営者の報酬がそれほど高額ではなく、従業員と同じ満員電車に揺られて出勤し、従業員と同じ作業服姿で社員食堂に出入りし、従業員と同じ目線で企業の収益確保に励んでいる姿が米国のTVで報道され賞賛された。
集団どうしの格差をあまり極端にしない。それは日本人の知恵あるいは常識であった。十九世紀まで培ってきた常識は、二十世紀でも二十一世紀の現在でも基本的にはあまり変わらずに脈々と受け継がれている。
貧富の差の激しい社会は、日本に似つかわしくない。強欲資本主義は日本にふさわしくないのである。決して導入を図ってはならないものであろう。(つづく)
脚注
6)松原久子著「驕れる白人と闘うための日本近代史」(田中敏訳)、2005年、文藝春秋。
7)異論もある。根拠は示していないが、格差はいつの時代にもあったというものである。中国学者で阪大名誉教授の加地伸行(かじのぶゆき)氏が「正論」2009年10月号に掲載した文章を引用しよう。現代の特徴を格差社会であるとするのは「デマ」である。それをなくしますと煽動する人は「デマゴーグ」である。そのように主張されている。賛否はともかく痛烈な批判である。
「総選挙が終わった。好むと好まざるとに拘らず、これからは民主党の意見が政治に大きく反映されよう。世は、それを民意と言う。民主主義という方式が民意を表現すると言う。そのことを、この九月、政治評論家や政治学者らがあれこれ論じ続けることであろう。そういう世の動きとは離れて、私は一人の老中国者として、民主党そのものそして民主党なるものを支持する人々に対して、醒めた見かたをしている。
「と言うのは、王朝の興亡三千年の中国史において、民主党の今となにやら類似した例を想い起こすからである。時の熱狂の多くは、紛物(まがいもの)に騙されている者の、人の好い歓呼の声である。それが政治というものの持つ魔力である」
「前漢時代末期、洪水などの天変地異が起こり沢山の人々が死に、住む家が流され、残された者たちは困りはてた。一方、少数の大土地所有者は機会に乗じて土地を増やしてゆき、それと連動して生活困窮者が増えていった。
「格差社会である。しかし、格差社会は太古の昔からずっと続いてきて今日に至っているのであって、現代の特徴を格差社会と称するのはデマである。いつの時代も格差社会なのである。
けれども、曲学阿世(きょくがくあせい:学を曲げ世におもねる)の学者どもがそれを現代の病弊と騒ぐものだから、人々はそう思い込む。そして<格差社会でなかった昔>は良かったと信じ込み、その虚像に一種の期待を抱き、<新しい政治を>と叫ぶことばが人々の耳に快く聞こえてゆく。
まさにこのときに、天才的デマゴーグが現れた。その名は、王莽(おうもう)。……」
「この王莽は学問が非常によくでき、人柄もたいへん控えめということで、周囲の人々から極めて評判がよかった。名流出身の学校秀才、その上、人柄にはギラギラとしたところがない品の良さがあった。また、資産家で金品を困窮者にばらまいていた」
「王莽は、虎視眈々と皇帝の位を狙っていた。しかし、軍勢を従えて力で奪うという軍事的能力はなかった。そこで、人々の推薦を受けるという多数派工作を図る」
「このとき、王莽は強力なキャッチフレーズを作った。「新」である。……その結果、五十三歳の王莽は多数の支持を得て皇帝の位に即き(西暦八年)、なんとその王朝を「新」と号した。そして改革と称して次々と実際に『…を改め、…を易(か)え、…を変じ、…を殊(こと)にし、…を異(こと)にし』ていったのである」
「王莽は、民衆が最も喜ぶことを計画した。格差社会を是正しようと。そこで、中国政治理論の核心——全地善民は皇帝の所有という古典的観念を実質化し、全農地を国有化し、そのあと人々に一律に一定の土地を分配するという、社会主義者も腰を抜かすほどの教条主義的改革を行おうとした」
前王朝の王族を滅ぼし、官僚を罷免した。「王莽の政治は、新しい政治と叫んで、古代の善政を理想としてそのまま引き写し、従来の通貨を何度も改めたり、度量衡も変更したり、とにかく改革、改革であった。その結果は大混乱であった。
それどころか、農民にとって百畝の田も夢に終り、官吏は王莽の改革を利用して私腹を肥やし、大地主、大商人もさらに肥大していった。こうなるとだれも政府を信頼せず、治安は悪化し、各地に盗賊が増え、その内、赤眉(眉を朱で染めて目じるしとした)という農民大反乱集団も現れるに至った。各地の豪族は自立して割拠し、王莽政権は揺らぐ。……やがて反乱軍はしだいにまとまりつつ、王莽を攻め、……ついに王莽は惨殺された(西暦二十三年)。わずか十五年間の短い王朝であった」
「清朝の文人で趙翼(ちょうよく)は、……王莽一代を痛烈にこう評している。『今の(人々の)愚かなるや、(単純にただ)詐(たば)かるのみ。(王)莽の如きは、其の詐(たば)かるや、(その内容自体が、ただ)愚かなるのみ』と」
8)http://ja.wikipedia.org/wiki/マリーアントワネット
(3952文字)
●
2010年3月28日日曜日