さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策
What should we do now? Explore the history of Japan and the world.
〜 PEKのひとりごと PEK’s soliloquy 〜
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〜 PEKのひとりごと PEK’s soliloquy 〜
xiii’’)番外編1 この日に選挙を想う(Ⅱ)選挙による大変革
ここ五〇〇年の歴史の中で、日本で国の仕組みは三度大きく変化した。その三度とも、外国との関係が影響を与えている。
(一)織田信長、豊臣秀吉、徳川家康による戦国時代の終了時、
(二)江戸末期から明治維新という転換時、
(三)太平洋戦争、大東亜戦争に負けて再出発した時、の三回だ。
今回は(三)を扱い、日本の将来に思いを巡らす。
大東亜戦争敗北から戦後復興へ
日本が明治時代の頃は、ヨーロッパ列強および新興国アメリカ合衆国が、世界を舞台にパワーポリティクスを展開していた。列強どうしで植民地を巡る戦争をし、隣国と争って領土を戦いとっていた。武力と経済力によって、自国の植民地や版図を拡げていった。
列強は、万国公法という国際ルールをこしらえていた。その中で、文明国と未開の国、その中間という区分けをしていた。文明国どうしのルールである。文明国以外の地域の主権を認めず、そのルールの対象から外していた。
自分たちの都合そのままに、非文明国の発展を「助け」ていた。列強は、相手が未開の地域に対してなら、早い者勝ちで領有権を主張したり、列強どうしで争ったり、圧倒的な軍事力で現地の人々の反乱を制圧して植民地にした。
文明国と未開地域のちょうど中間の国々に対しては、その国との間に条約を結び、貿易のルールを教え、取引きを進めて利益を上げた。様々な切っ掛けを利用して影響力を及ぼしたり、戦争をしたり、何年もかけて浸透を図った。
文明国と未開地域のちょうど中間の国々の一つだった当時の日本は、列強と条約を結び、貿易のルールと国際政治の仕方を教わった。
徳川幕府は万国公法を知らずに、条約を結んだ。安政の五カ国条約(一八五九年)は、いわゆる不平等条約といわれ、関税自主権がなく、治外法権および片務的最恵国待遇条款(へんむてきさいけいこくたいぐうじょうかん)を承認させられていた。
万国公法が日本語に翻訳された時、あるヨーロッパ人は次のようにつぶやいた。「何故、誰が、この本の存在を日本人に教えたのか!」と。結んだ条約が、日本に不利で、文明国に有利なものであったことが、この本を読むと一目瞭然だったからである。
日本は、世界の厳しさに曝(さら)され戸惑いつつ、列強に不平等条約の改正を働きかけた。当初、列強の支配する国際社会から全く認知されず、交渉は困難を極めた。条約改正にこぎ着けるまでに、払った努力は並大抵のものではなかった。実に、五十二年かかっている。
治外法権制度の撤廃は、日清戦争の直前、一八九四年に、ロシアの南下に危機感を募らせていた英国との間に結んだ、日英通商航海条約で初めて実現する。関税自主権を盛り込んだ修正が可能となるのは、日露戦争後に日本の国際的地位が高まったあと、一九一一年になる。
日本は、朝鮮半島を指導する権利を巡って、列強の一つロシアと戦った。いわば、植民地獲得競争に参入することによって初めて、不平等条約の改正が可能になったと言える。恐らく、この「参入」なしには、条約改正の実現はもう半世紀ほど先延ばしになっただろう。
日本は、ようやく条約改正に漕ぎ着け、対等な条約を結んだ。しかし、それは決してゴールではなかった。不平等条約の改正を達成したという事実は、日本が列強間のパワーポリティクスの世界に正式に参加することを意味していた。
日本に立ちはだかった次の壁は何だったか?それは、人種差別感を伴った日本への警戒である。日露戦争を経てますます拡がった「黄禍論」である。先進国クラブに黄色く小さい猿のような東洋人が仲間入りすることへの嫌悪感である。
圧倒的な軍事力と先進的な科学技術、産業革命を経て飛躍的に向上した生産力、経済力、金融システム、流通システム、政治制度、法制度、教育制度などを背景に、西欧文明は東洋に対して優位に立っていた。
先進国クラブは、西欧文明の担い手だけで成り立っていた。しかし、その先進国クラブに、日本が入ろうとし始めた。西洋以外で初めてのメンバーである。
「黄禍論」は、東洋文明に対峙した西洋文明の怖れの表出でもあった。西欧は、昔からモンゴルなどアジア系民族による侵攻に悩まされて来た。
これまで、西洋文明とその担い手である白人が一方的に優位に立ち、東洋と有色人種を圧倒していた。しかし、一九世紀半ばから、アメリカ合衆国、カナダ、ドイツ、オーストラリアなど白人国家では、アジア人を蔑視し差別する考え方が再燃しはじめる。
日清戦争後の独仏露による三国干渉は、「黄禍論」の具体的あらわれである。日露戦争後、さらに警戒感、恐怖感は広まり、その矛先は主に日本人に向かった。ワシントン軍縮会議、アメリカ合衆国の排日移民法が、その一例と言われている。
現実のパワーポリティクスの世界でも、日本とアメリカ合衆国が、太平洋の西端と東端で海を挟んで対峙するようになる。
アメリカ合衆国は、西に向かって開拓(侵略)を進めて太平洋に到達し、一八九三年から一八九八年にかけて、ハワイを自国に併合していた。また、太平洋の東側から西へと向かい、フィリピンもスペインから奪い取り(米西戦争、一八九八年)、自国の植民地にした。
日本は、太平洋の西端にあって、自然と東側に向かっていく。事実、第一次世界大戦では、日本は日英同盟に基づいてドイツに宣戦布告。ドイツ領だった東太平洋赤道以北のパラオ、マーシャル諸島を信託統治領とした。
こうして、日本の台頭により、日本とアメリカ合衆国は、太平洋の覇権を巡って真っ向から利害が対立するようになる。海洋国家どうしの対立である。
中国大陸では、一九一二年に清が滅び、その遺産相続争いともいうべき長い長い内戦が始まった。国民党政府、北洋軍閥、一九二一年創設の中国共産党、ウイグルの独立運動(東トルキスタン共和国)、ソビエト連邦の後押しを受けたモンゴル、英国の後押しを受けたチベットなど。
世界恐慌後の日本は、止せば良いのに、中国大陸に経済発展の活路を見出そうとし、朝鮮半島を足がかりに、満州族の故郷である東北部の利権を守り、それを拡大していく路線をとる。陸軍と経済界と右派勢力の暴走によって起こされた満州事変を政府は追認していった。
満州族を応援するという形のリーガルフィクション(法的擬態)で、中国大陸における内戦に深く関わってしまった。その後、日本は満州だけにとどまらず、大陸中原や南京、長江(揚子江)流域にまで兵を進めて、結果的に、国民党政府を支援する英米、特にアメリカ合衆国と決定的に対立するようになる。
太平洋と中国大陸における利害の衝突から、アメリカ合衆国は、日本に対する経済制裁に出る。ABCD包囲網である。石油やくず鉄の大部分などをアメリカからの輸入に頼っていた日本は、すぐに干上がった。
日本は、国際世論を味方につけるというソフトパワーによって航路を切り開こうとはしなかった。むしろ、武力によって雌雄を決する方を選んだ。パートナーとして選んだのは、人種差別を露骨に打ち出しユダヤ人を迫害していたドイツだった。
欧米列強の植民地となっていた、フィリピン、インドシナ、シンガポール、マレー半島、香港、インドネシア、ニューギニア、インドなどを、英米仏蘭豪など白人支配から開放するとして、戦いに打って出た。
ドイツに負けそうになっていた欧州列強がアジアに目を向ける余裕が無い時に、その力の空白に割って入ろうとした。南方資源の獲得も目的の一つだった。
アメリカ合衆国、大英帝国は、国際世論を見方につけるべく、表裏の両舞台でキャンペーンを展開する。日本および数少ない同盟国に対する包囲網を敷いた。全体主義、ファシズムに対する、自由の為の戦いであると。
連合国は宣伝した。日本は「白人支配からの解放者などではない。逆に侵略者である」と。残念ながら、現実でも理論でも、日本は戦略が貧弱だった。というより、日本に戦略と呼べるようなものは無かった。
一九四五年八月十五日、無謀な戦いに決着がついた。戦闘員と非戦闘員あわせて、日本では三百十余万人の命が失われた。アジア全体を含めると、もっと沢山の犠牲者が出た。
戦後、東南アジアでは、日本が占領した植民地をアメリカ、イギリス、フランス、オランダが奪回し、宗主国の地位を回復した。しかし、日本軍占領下で、独立意識が鼓舞され、独立運動が激化した。本国では、植民地支配への批判が高まり始めた。
戦勝国も戦争によって疲弊していたため、植民地帝国の維持は困難となった。その後一九六〇年代までの間に、多くの植民地が独立を果たした。日本は敗れたが、大東亜戦争、太平洋戦争は、白人によるアジアなどの支配という旧来の世界秩序を一変させる戦いとなった。
日本は、アメリカ合衆国など連合国の占領下におかれ、欧米列強や中華民国の戦争観、歴史観の受け入れが、東京裁判や報道、教育などで求められた。また、全体主義、軍国主義的色彩の濃い諸制度の諸改革が断行された。
日本人の多くは「朝鮮半島、中国、東南アジアの国々を、自分の勝手な都合で侵略した」という歴史観を受け入れた。自国の軍隊が行なった残虐行為を明らかにすることを、積極的に受け入れた。連合国側がした残虐行為に関しては、注目せず、ことさらに関心を払わなかった。
その中で、日本人は諸改革を実行に移し、戦後復興に努めた。廃墟と混乱の中から立ち上がり、生活基盤を作り直し秩序を取り戻そうと必死に励んだ。その頃、一般の人々の生活苦は、筆舌に尽くし難いものであった。
選挙による国の仕組みの変革
これら三つに共通していることとして、「一般庶民の暮らしはどん底だった」という事実を挙げることができる。国の仕組みが大きく変化する時はいつも、人々の暮らしは苦しかった。
ここである考えが浮かぶ。日本では、庶民の暮らしがどん底にならなければ、決して国の仕組みを変えられないのか、という問いである。
日本は、戦後の高度成長期とバブル期を経たあと、いわゆる失われた十年を経験した。戦後作った仕組みの歪みが、あちこちで出ている。少子化には歯止めがかからず、人口は減少することが明らかになっているのに、有効な手だてが打てないままズルズルと来てしまった。
グローバルスタンダードとやらが日本に押しつけられ、日本でうまくいっていた数々の慣行はやめさせられた。拝金主義が蔓延し、人々は行き過ぎた個人主義に走っている。
若者は正社員になることができず、ワーキングプアの問題が生じ、派遣社員の首が切られている。かつて味わったことのない、格差社会が出現しようとしている。
さて、二〇〇九年八月三〇日の衆議院総選挙である。国民の生活が本当にどん底に落ちてしまう前に、国の仕組みを変えることが、戦争ではなく、選挙という民主的な方法で可能なのか。
今、日本は大きな岐路に立っている。歴史上、経験したことがない分岐点である。平和のうちに、国民が指導者を選挙で選ぶ。戦争によらず、日本の国の仕組みを変えることだ。どちらが勝つとしても、国の仕組みは変えてゆかざるを得ないだろう。
それとも、この国では、人々すべての生活が困り果ててしまうまで、一度選んだ方向性に大きな変更を加えることが出来ないのだろうか?特に、前三回のうちの最後の例と同様に、破滅にまで突き進んでしまわないと目覚めないのだろうか?二〇〇九年の八月十五日に想う。(了)
(本論「この日(8月15日)に選挙を想う」の冒頭に戻る)(マイ・アーカイブズへ)
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2009年8月16日日曜日