さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策
What should we do now? Explore the history of Japan and the world.
〜 PEKのひとりごと PEK’s soliloquy 〜
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〜 PEKのひとりごと PEK’s soliloquy 〜
xiii’’)番外編1 この日に選挙を想う(Ⅰ)中世・近代日本の大変革
ここ五〇〇年の歴史の中で、日本で国の仕組みが大きく変わった時は、およそ三度ある(と思っている)。その三度とも、特に外国との関係が、国の仕組みに何がしかの影響を与えている。
(一)織田信長、豊臣秀吉、徳川家康による戦国時代の終了時、
(二)江戸末期から明治維新という転換時、
(三)太平洋戦争、大東亜戦争に負けて再出発した時、の三回だ。
本稿では(一)と(二)を扱う。
戦国時代末期から江戸時代初期
まず、戦国時代末期は、何度も述べているように、世界は大航海時代であった。欧州の強国により、世界が植民地化される競争の火ぶたが切って落とされていた。日本は、その最前線に置かれていた。
ポルトガルとスペインがレコンキスタ(国土回復運動)を成功させ、イベリア半島からイスラム教徒を追い出した。
ポルトガルは、東廻りで、アジアに向かった。アジアの豊かな産物の流通を一手に握って巨万の富を得ていたアラブ人たちを武力で一掃し、自分たちがとって代わった。スペインは、西廻りでインドを目指し、新大陸を「発見」した。先住民族を滅ぼし、広大な植民地を得た。
ローマカトリック教会のお墨付きで、トルデシリャス条約、サラゴサ条約を結び、東半球をポルトガルがとり、西半球をスペインがとるという、まことに身勝手な取り決めを交わしていた。
宗教改革が起こった。ローマカトリックも反宗教改革で体制を刷新した。イエズス会、フランシスコ会という修道会が創設され、アジアや「新発見」された大陸に宣教師を送るようになった。
日本から見ると、種子島に漂着したポルトガル船により、鉄砲が伝来した。日本では、まもなく火縄銃が自分の力で製造されるようになる。イエズス会の宣教師、ザビエルがやってきてキリスト教信仰を広めはじめ、やがて信者が爆発的に増えるようになる。
当時の日本は、応仁の乱以降、都は荒れ果て、人々は相次ぐ戦乱の中で、貧しく苦しい生活に喘いでいた。
そんな中、織田信長は、経済改革、流通改革、専門武士団の創設、身分制度改革、許認可権の撤廃、既得権益を守ろうとする寺社などの武装解除などを断行。武士による秩序ある社会の創設を始めた。
信長支配下にある領民の生活は、一変して豊かになった。後継者によって日本全国が平定され、改革の果実を民は等しく享受することができるようになった。
このように、社会構造が大きく変化した。改革前、人々の暮らしはどん底だった。しかし、信長の諸改革により、次第に豊かになっていった。大衆は社会の仕組みの大変革を支持した。それは当然のことだった。
江戸末期から明治維新
この時代は、欧州列強による世界分割が最終ステージを迎える頃だった。特に、産業革命を最初に成し遂げたイギリス、次いでフランス、オランダなどが、アジアにおける植民地獲得競争を展開していた。
イギリスは、十九世紀前半には、イギリス東インド会社主導によるインドの植民地化を完了させていた。一八四二年、アヘン戦争に勝利して、清から香港を獲得。オランダは、もっと早く、一七九九年から、オランダ本国によるインドネシアの直接統治を行なっていた。
フランスは、一七六三年、インドに関する権益闘争でイギリスに破れたものの(パリ条約)、ナポレオン三世がインドシナ半島に出兵した(一八五八年)。ロシアは、シベリアへの進出および南下政策により、沿海州、樺太、日本をうかがっていた。
アメリカ合衆国は、一八四八年、メキシコとの戦争に勝利し、西海岸にまで到達。現在のアメリカ本土の版図全体を手に入れた。遠洋捕鯨が盛んとなり、太平洋に補給基地を必要とするようになっていた。
ペリーの浦賀沖への来航(一八五三年)、日米和親条約の締結(一八五四年)を経て、一八五八年に、徳川幕府は日米修好通商条約という、悪名高い不平等条約を結んだ。英仏蘭露とも同様の不平等条約を結ぶはめになった(安政の五カ国条約)。
それまで、庶民の生活は安定していた。国内だけで完結した、循環型の経済活動が行なわれていた。しかし、金銀の交換比率が国内外で違うというワナに引っかかり、日本の金が国外に流出。かつて黄金の国と呼ばれていたジパングから、金が消失しかけた。
日本の経済はたちまち混乱に陥った。金銀交換比率の問題だと見抜き、国際水準への移行を提案した幕府の役人がいた。しかし、アメリカ初代領事タウンゼント・ハリスは、恫喝(どうかつ)して、その提案を一蹴(いっしゅう)。金の流出は止まらず、結局、完全に底をついた。
その後、ハリスの「助言」により、ようやく金銀交換比率が国際水準に戻った。ハリスは、後ほど、幕府から感謝されている。どう考えても、ハリスに感謝する必要などない。幕府はよっぽどおめでたい。次に、銀と銅との交換比率の問題が起こったが、幕府の対応はここでも後手後手に廻った。
関税自主権がなく、国内産業を保護できなかったことも重なって、物価が天井知らずに上昇する。庶民の生活は困窮の極みに陥った。領事裁判権の問題で、ならずもの外国人を裁けなかったこともあり、外国人を警戒するようになる。
最初は、日本に入って来た外国人が物珍しく、幕府が警戒を呼びかけていた理由が分らないほど、外国人とは仲良くできると思っていた。しかし、一年後には、外国人の姿を見ると、庶民は扉を閉め、中から鍵をかけて決して出て来ようとしなくなった。
明治維新は、なぜ成功したのだろうか?つまるところ、「庶民の生活」が困窮したからである。これは、欧米列強の帝国主義的強欲という圧力、ならびに開国時の徳川幕府の明らかな失政による。
人々の暮らしは苦しくなった。そのせいもあって、庶民は、徳川幕府を倒し、改革を実行して行く薩長土肥連合の働きを応援した。伴う一連の変化を、国民は「ご一新」として受け入れた。討幕運動、大政奉還、戊辰戦争を経て、明治政府により諸改革が断行された。
その範囲は広く、政治、法制、宮廷、身分制度、地方行政(版籍奉還、廃藩置県)、金融、流通、産業・経済(殖産興業)、教育、外交、軍事(富国強兵)、宗教政策など、多岐に及んだ。
アジア初の近代国民国家が誕生した。国を富ませ軍事力を増強した。日本は、決して欧米列強の餌食になるまいと必死だった。その結果、やがて約半世紀の間に、世界の先進国の仲間入りを果たすようになった。(つづく)
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2009年8月15日土曜日