さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策
What should we do now? Explore the history of Japan and the world.
〜 PEKのひとりごと PEK’s soliloquy 〜
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ⅶ)ケガレ、死、差別(Ⅴ) 差別される軍隊
警察、軍隊を差別した日本人
昔の時代劇では、与力や同心、あるいは岡っ引きが武士の犯罪人をとらえようとすると、よく「不浄役人の縄目を受けるものか」といったような台詞があったらしい。「不浄役人」というのは「穢れた役人」という意味だ。
これは、刑事警察にあたる役人は伝統的に穢れたものとして扱われていたということを明確に示している例である。ここには明らかな差別意識が見える。
「徒然草」「愚管抄」などといった貴族の書いた作品では、武士のことを「夷(えびす)」「荒夷(あらえびす)」と表現している。つまり「野蛮人、まともな人間ではない」という意味である。ここにも差別がある。
まず第一に、これはケガレという、日本古来の神道的宗教感覚に基づいた差別だと考えられる。加えて、もともと外来宗教であった仏教の影響もある。
そもそも、仏教は殺生というものを悪ととらえる。これは仏教の良いところであり、仏教自体に責任はない。しかし、平安貴族たちは、仏教を信仰することにより、ますます武士たちを差別するようになった。
つまり、あいつらは『人殺し』だ。あいつらは殺生をする人間だ。ケガレに手を染める人間だ。我々はそうではない。平安貴族はそのように考え、武士を差別したわけである。
こういった差別は現代でも続いている。もちろん自衛隊のことである。
「軍隊とは、殺人と破壊を専門とする集団のことであり、平時から毎日殺人と破壊の方法を研究、学習、練習している集団であること、自衛隊は軍隊以外の何ものでもないこと、ということをきちんと教えてほしいと私は思います」(脚注22)。
要するに軍隊、今の自衛隊というのは人殺し集団だ、ということを言っている。人殺しの集まり、あるいは人殺し予備軍の集まりだと言っている。
井沢氏は、「実はこれは、私がこれまで述べてきた日本古来の差別感情をもろに剥き出しにしたものにすぎません。このような平和教育のやり方は、けっして日本の将来のためになりません」と述べている。
「死」に携わる人々はどのように扱われるべきか
憲法を議論する上での自衛隊がどういったものであれ、戦争を悪と考え、人殺しと考えることは、日本人の情に訴えるものがある。しかし、だからと言って、それに携わっている人々を差別してはいけない。
自衛隊を人殺し集団と呼んでいる人々は、自分たちが自衛隊関係者を差別しているとは思っていないだろう。しかし、継子(ままこ)扱いにしていることは明らかだ。差別している方は意識しないが、差別されている方は受けた差別を決して忘れないだろう。
人を殺すことはいけない。しかし、現実社会では殺人事件が起こり、犯人が有罪であれば、極刑としての死刑も行なわなければならない場合がある。
死刑制度そのものは国家による殺人である。そのように断じて、死刑を廃止すべきだという主張もある。しかし他方で、犯人に対してあまりにも甘く、遺族感情についてあまりにも斟酌して来なかったという議論も出て来ている。
こういった仕事をしてくれている人々を、我々はどれだけ評価しているだろうか。犯罪を摘発する業務であっても、人を裁くという役目であっても、死刑を実際に執行する職務であっても、社会に本当に必要で素晴らしい仕事をしている人々として、平等に扱っているだろうか。
戦争はない方がよい。平和であることが望ましい。もちろん平和は理想だ。その点、世界の歴史の中では稀に見るほど、日本は戦争のない時代を長く続けることができた。それは素晴らしいことである。しかし、全世界的に見ると事情は全く違う。戦争につぐ戦争の歴史であった。
例えばアメリカは、原子爆弾や都市爆撃で非戦闘員である一般市民を何十万人と非人道的な方法で殺しておきながら、第二次世界大戦を「良い戦争」と考えている(脚注23)。
その後も、朝鮮戦争への介入、ベトナム戦争、グレナダ侵攻、湾岸戦争、アフガン戦争、イラク戦争などとずっと戦争を続けている。
あまり言いたくはないが、アメリカが戦争をするのは弱い相手に対してである。あって欲しくはないが、核保有国には戦争をしかけない。軍事力の強い国、核による報復の恐れのある国には戦争しない。そういう意味では、相手国の軍事力は抑止力として働いていると言って良い。
軍事力を賛美して言っているのではない。事実として、軍事力が抑止力として作用している面がある、ということを言っているだけである。抑止力によって戦争が未然に防がれている。軍隊によって、平和が作り出されている。そういう一面が事実としてある。
そういった軍事力の一面を、日本人は評価しているか。恐らく大半の人は評価しない。全く評価しない。自衛隊は、我が国の平和を守る抑止力の働きをしてくれている。もしそうした一面があったとしても、そのことを日本人は評価しているだろうか。恐らく大半の人は積極的な評価を口にしない。
逆に、平和に反している、戦争の準備をしている、軍隊は人殺しの集団である、だから恐ろしい戦争に関係する話はやめよう、といった論調の方が好きである。
いろいろな理由があるだろう。悲惨な戦争に懲りた、平和教育のタマモノ、左翼的な新聞や出版社の世論形成。しかし、平和が来るようにと願って平安京と名付け、桓武天皇と貴族が正規軍を廃棄した頃から、日本人のマインドは全く変わっていない。それが真の理由だろう。
つまり、戦さの準備をすると戦争を呼び込んでしまう、そういうコトダマの基本原則。戦争は殺人である、「死」である、ケガレの最たるものである、自分はケガレに触れたくない、というケガレを避ける基本的態度。
自分はケガレを避ける。戦争とか人殺しのこと、穢れたことは、アメリカと自衛隊にやらせる。アメリカ軍に基地を提供することによるアメリカの抑止力と、自衛隊の抑止力で平和が維持されているという面があっても、そのことに評価も感謝もしない。
かえって、人殺し集団と言って差別する。差別する側は自分が誰かを差別しているとは全く考えない。
実は、現在の我々のありようは、平安時代の貴族がとり続けて来た態度と全く変わりがない。「死」を避け、ケガレを避け、社会にとって必要なことを黙々とやってくれている人々を差別してきたことである。
ケガレ、死、差別に見る世界観の歪み
基本的に日本人は、「死」と向き合っている人々、「死」と関わっている人々を、正当には扱って来なかった。それどころか、いわれのない差別を続けてきた。それは日本人が持っている宗教感情に基づくものである。
現代でも、そういった職業の人々を評価しない傾向がずっと残っている。職業に貴賤はないと言っていながら、実際には知らず知らずのうちに差別を行なっている。
「ケガレ、死、差別」を世界大の視野で見たとしよう。その時に想像できることは、日本人の基本的な考え方に「歪み」が存在しているということである。この「歪み」こそが「日本人の奇妙さ」を特徴付けている。
そして、日本人自身は、この「歪み」についてほとんど自覚していない。この「歪み」は、日本人の宗教および宗教的感情に裏付けられたものである。何とかして「歪み」を正したほうが良いのではないだろうか。(了)
(本論「 ケガレ、死、差別」の冒頭に戻る)(マイ・アーカイブズへ)
脚注
22)城丸章夫「戦争・安保・道徳 平和教育研究ノート」あゆみ出版。
23)原子爆弾や都市無差別爆撃による非戦闘員の犠牲は、日本軍がした悪い仕業に報いた結果であって、アメリカ兵の犠牲を最小限とするためにやむを得なかった、という考えは言い訳にすぎない。非戦闘員を残酷にも大量虐殺したホロコーストであるという事実を決して正当化できるものではない。
(3124文字)
2009年3月26日木曜日