さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策
What should we do now? Explore the history of Japan and the world.
〜 PEKのひとりごと PEK’s soliloquy 〜
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〜 PEKのひとりごと PEK’s soliloquy 〜
ⅶ)ケガレ、死、差別(Ⅰ) 穢れと原始宗教
日本人の特徴とは何か。日本人の特殊性はどこにあるのか。外国人と付き合ってみると、お互い感覚的になかなか理解できないところがある。
それはその民族の人々が特殊な考え方を持っている場合があるかもしれないが、日本民族にも奇妙な特徴があるためだと言って良いと思う。日本人の奇妙さとは何か。日本人はどこが特徴的なのか。
水に流すことを美徳と考える日本人
例えばお隣りの韓国人の思考様式は「恨(ハン)」が特徴だという(脚注1)。「恨」については次のように説明されている。日本語の「恨み」と同じ漢字をあててはいるが、全く違うようだ。
「朝鮮民族にとっての『恨』とは……不満の累積とその解消願望」で「単なる恨み辛みではなく、あこがれや悲哀や妄念など様々な複雑な感情をあらわすものであり、彼らの文化は『恨の文化』と呼ばれる」(脚注2)。
日本人には「恨」の思考様式がよく理解できない。「恨」と対照的な日本人の思考様式の特徴は「水に流す」ことであろう(脚注3)。日本人は「不満を累積させる」ことよりも、何でも「水」に流したがる。「水に流す」ことを美徳と考えている。
非常にひどい仕打ちを受けた相手に「あなたへの恨みは忘れました。すべて水に流します」と言うなら、日本では「大した人だ」と評価される。立派な人物として尊敬される。
なぜ「水に流す」ことが美徳なのか。前二回で登場してもらった井沢元彦氏によると、「穢れ(ケガレ)」という感覚によるところが大きいという(脚注4)。今回は、このケガレというキーワードによって見事に描き出される日本人の特徴について考えてみる。
日本人は宗教的でないか
「水に流す」ことは美徳であるが、反面、欠点もある。
何でも「水に流す」ことにより、日本人は自分たちが成長してきた過程を歴史的にとらえることができない。どういう思想遍歴を辿ってきたか、どういう宗教を背景に日本民族が形成されていったか、全く意識しない。検証しようともしない。
井沢氏は言う(脚注4)。
「明治以降、宗教を軽視する傾向が強くなりました。…宗教というものは、本当にまともな人間の信じるものではない、そういうものを信じるのは、どこか弱い人間なんだ、強い人間はそんなことをする必要がないんだというような言い方すらされたこともあります。」
アメリカ人にはキリスト教に基づく考え方があり、ロシア人はロシア正教に基づいて考え、中国人は儒教に基づく考え方をしてきた。ところが日本人だけは、そういった過去を把握しようとしない。
それは、日本人が信じている宗教、日本人がとらわれている原始的宗教感情の中に、『水に流す』という考え方があるためだという。日本人はいまだに万葉時代の宗教感情にとらわれている。
「その代表的なものが、実は『ケガレ』と『言霊』で」、「九九パーセントの日本人は、これに冒されている。悪い言い方をすれば、毒されていると言ってもいい」のだという(脚注4)。
「ケガレ」という原始的宗教感情にとらわれているため、私たちは「水に流す」ことを好む(脚注5)。「水に流す」から、歴史に学ぼうとしない。歴史に学ばないから、世界中の国々が共通して持っている宗教をバカにする。
宗教を無視するから、日本人自身の思想遍歴を検証できない。検証しないから、自分たちの奇妙さの本質を知ることもできない。そして、自分たちのどこが変なのかわからないので、異文化との衝突に苦しむことになる。
ほとんどの日本人は自分を宗教的ではないと言う。宗教的でないことをむしろ良いこととして考える。
私が米国に留学していたとき、地域の教会に出席するとそこにはいつも日本人留学生がいた。挨拶すると、自分は信じていないと言い、こんなところに来る人間ではないと言いたげな反応をした。
私たちがそこに続けて出席するようになると、よほどでない限り彼らは来なくなった。こちらが出席しなければ、彼らはずっとそこに行き続けていただろう。そうと思うと、彼らの反応は何とも奇妙な言動のように見える。
自分を宗教的ではないと言うものの、日本人は無意識のうちに「ケガレ」と「コトダマ」という原始的宗教感覚にとらわれている(脚注4)。
この宗教感覚は、山本七平氏の提唱する「日本教」についての概念(脚注6、7、8)に匹敵するほど、日本人を特徴づけている宗教的概念ではないかと私は思っている。
自分の思考や言動を無意識のうちに規定する宗教感覚を否定する日本人は、その感覚から自由になれない。井沢氏の言い方を借りると「毒されている」のである。
日本人は宗教的でないか?その答えは明快で「極めて宗教的である」となる。
ケガレとは何か?
「水に流す」という感覚が、ケガレと関係しているという話に戻る前に、ケガレとは何かについて触れる。
いまどきの十代の女の子は、父親の服が自分のと一緒に洗濯機で洗われることを極端に嫌う。以前、そんな話がマスコミを賑わせた。
本当に不衛生で、不潔な場合もあるのかもしれない。しかし、それよりも、感覚的なものが強いものではないか、と想像する。言ってみれば、その感覚的な汚れ、不潔さがケガレである。
洗い箸を何となく使いたくない感覚、割り箸を使うのが礼儀と考えられている感覚、家族の中で各自のご飯茶碗、湯のみ茶碗が用意されていること、めいめいの箸が一家に一通り揃えてある風景、これらにはケガレの意識が潜んでいる(最近少なくなっている傾向があるようだが)。
感覚としての汚れは完全に消毒してもなくならない。一方、実体としての汚れは消毒すれば落ちる。全く別のものである。日本では古来、感覚としての汚れを「穢れ(ケガレ)」と呼んでいた。
われわれ日本人は「汚い奴」と言われると、恐らく最も腹を立て激怒する。「フケツ」「バイキン」とレッテルを貼る形のイジメが学校で起こる。
これらも日本人が「ケガレ」にこだわりを持っている例だ。「ケガレ」が大量についている「汚い」状態と指摘されるから、人は激怒しイジメだと感じる。
風呂に入るなど清潔を保っているかどうかは全く関係なく、実体はないものの「ケガレ」の感覚のほうを気にする。これらは「穢れの意識が、日本人の心の奥深くに生きている証拠」である。
ケガレとヨゴレの違いについては、「『けがる』と『よごる』の違いは『よごる』が一時的・表面的な汚れであり洗浄等の行為で除去できるのに対し、『けがる』は永続的・内面的汚れ」「主観的不潔感」とされている(脚注9)。
また、罪とケガレについて、「罪と併せて『罪穢れ』と総称されることが多いが、罪が人為的に発生するものであるのに対し、穢れは自然に発生するものであるとされる。
穢れが身体につくと、個人だけでなくその人が属する共同体の秩序を乱し災いをもたらすと考えられた。穢れは普通に生活しているだけでも蓄積されていくが、死・疫病・出産・月経、また犯罪によって身体につく」と説明する(脚注9)。
井沢氏は次のように述べる(脚注4)。
「日本人というものは、他の国の人が絶対に感じない汚れ、実体としてはまったくないはずの汚れを感じているんです。」
「『罪(犯罪)も、災い(災禍)も、過ち(過誤)もすべて穢れ』。これが日本古来の感覚なのです。」
「これは実体ではなくて感覚である。つまり日本人特有の感覚の中にしか存在しないものである。ですから、突飛な言い方かもしれませんが、一種の宗教のようなものだといってもいいでしょう。
……肝心なのは、穢れという概念は、科学的、理性的な概念ではなくて、宗教的概念であり、日本人の心の中に厳然としてある、ということです。」(つづく)
脚注
1)呉 善花「続 スカートの風」1991年、三交社。
2)http://ja.wikipedia.org/wiki/恨
3)呉 善花「ワサビと唐辛子」1997年、祥伝社。
4)井沢元彦「穢れと茶碗」1994年、祥伝社ノンブック、祥伝社。
5)後で詳述する。
6)http://d.hatena.ne.jp/keyword/日本教:山本七平が提唱した概念で、日本人の行動を規定する、神道+日本的仏教+日本的儒教の形式知化されざる宗教。日本を覆う「和の空気」と「世間体」のこと。
7)イザヤ・ベンダサン、山本七平「日本教について」1975年、文藝春秋。
8)山本七平、小室直樹「日本教の社会学」1981年、講談社。
9)http://ja.wikipedia.org/wiki/穢れ
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2009年3月22日日曜日