さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策
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千字でたどる日本の教会史 22)黒田官兵衛孝高受洗とその影響
千字でたどる日本の教会史
22)政権中枢の黒田官兵衛受洗とその影響
当初秀吉は、教会に対して信長と同じような姿勢で臨んだ。オルガンティーノが大坂に秀吉を訪ね、教会を建てるための土地を願い出た。すると驚くほどの歓待を受け「極上の敷地を進ぜよう」と教会建設を許される。信者の数は増え続けた。一五八五年に黒田官兵衛孝高(よしたか)が受洗する。優れた才能で尊敬を集めていた彼は秀吉の側近中の側近だった。彼の心はまず小西行長によって動かされ、次いで蒲生氏郷と高山右近が彼を洗礼へと導いたといわれる。
官兵衛は九州征伐先遣隊の司令官となった。途中山口に立ち寄り、キリシタンに多大な恩恵をもたらす。そこは元来ザビエルとトーレスが種をまいた土地だった。毛利氏の時代になると伴天連が追い出され、キリシタンたちは教会のない生活を三十年間も余儀なくされていた。官兵衛は長門の国主毛利輝元に話をつけ、かつての教会の敷地にさらに追加用地を加えて教会に与える措置をとった。フロイスは「役人たちは、黒田官兵衛の前では自分たちの国主の面前に罷り出る時以上に戦慄していた」「その彼が司祭に対しては深い尊敬と恭順を示したので、異教徒たちは驚嘆した。それもこの時まで、哀れなキリシタンなどほとんど誰ひとり顧みる者もなく見捨てられていた土地柄だったからである」と記している。
官兵衛は修道士を二名帯同させ、希望者には宗門の話を聞かせた。官兵衛自ら出席する伝道集会である。修道士を実子のように世話し、夜中彼らに信仰の質問をすることもあった。彼の祈りは真心がこもったもので、「祈り終えると頭と両手を床につけ、ひれ伏してデウスの前に感謝を捧げた。彼はそうした行為を、いささかの気負いも不自然さもなしに」行ない、「一同に感銘を与えずにはおかなかった」という。彼の説得により大勢の人々がキリシタンになった。
家督を譲られた長男長政は豊後中津や筑前福岡を所領とした。一六〇四年に官兵衛は五十九歳で病死。そのころ家康の教会への態度は比較的穏便で、信徒の数は急増していた。ダニエルに匹敵するほどの影響力を行使できたのに、官兵衛に信仰を貫き通すほどの意志があったかどうか疑問とされる。右近改易の際にも率先して秀吉の意に従い、宣教師やキリシタン大名たちに大きな衝撃を与えた。ただ、「この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら…その人は決して報いに漏れることはありません」とある。黒田孝高が長門や九州で果たした役割は決して小さくはなかった。
(1000文字)
画像は、黒田孝高。
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2012年3月25日日曜日