さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策
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千字でたどる日本の教会史 20)教会保護政策の反動
千字でたどる日本の教会史
20)教会保護政策の反動
天皇にはローマ教皇のような力がある。来日前のザビエルはそう考えていた。彼はまず天皇を教化し、全国の布教を推進しようと目論む。だが当時の京都は荒廃していて、天皇も貧しく無力な存在に映った。ザビエルは失意の中で京を去るが、後継者らは都での布教許可を得ようと努力を続け、ついに足利将軍義輝(よしてる)から許可をもらう。しかし、五年後の一五六五年に義輝が暗殺されると、正親町天皇は伴天連追放の綸旨(りんじ)を出す。「大うすはらい」と称された。宣教師たちは認識を新たにする。天皇にはキリシタンを排除する力がある。当初思ったほど無力ではない。
四年後フロイスらは信長から朱印状を得る。翌年信長が京を留守にすると、正親町天皇(おおぎまちてんのう)は再び伴天連追放の綸旨を出す。心配したフロイスとロレンソに信長は「内裏も公方(くぼう、将軍のこと)も気にするに及ばぬ…汝は欲するところにいるがよい」と答える。宣教師たちは信長の許に行き、贈物を携えて天皇を訪問できるよう尽力して欲しいと懇願することもあった。だが信長は「予が天皇であり内裏である」と語り断った。一五八一年、ヴァリニャーノが来日し、天皇から布教許可を得る件につき宣教師らと話し合いを持ったが、信長の性格を考慮し断念している。宣教師側はあくまで天皇による布教許可にこだわり、信長はこの問題を棚上げにしてしまったわけだ。旧秩序を破壊する勢力と擁護する旧勢力。二つがぶつかり合う一五八二年、教会の庇護者、信長が死んだ。それを契機に旧秩序の擁護者が逆襲に転じる。もはや時間の問題だった。
神聖な日本の国土は神仏が護っている。「鎮護国家」の思想が蒙古来襲以来高まっていた。神道が天皇と結びつき国の護りとなっていた。外から来るものは、それが宗教であれ何であれ天皇の敵である。伴天連追放令を最初に出したのは誰だったか?天皇と朝廷だった。朝廷は一貫してキリスト教に敵対し続ける。一八五八年、外圧が高まる幕末、孝明天皇は次のように述べる。「嘉永(かえい)年間に至って外国がさかんに来ている。ことにアメリカはその筆頭である。我が国との交流を請うてはいるが、あとで我が国を併呑(へいどん)しようとする兆し(きざし)がある。また邪教であるキリスト教が伝染する恐れもある」と。開国によってキリスト教が流入してくる恐怖を述べている。
宣教師側は一貫して内裏への謁見を希望した。敵対するより創造主の和解の福音を携えていこうとした。この姿勢から学ぶところがあっても佳いのでは?そう思わされる。
(1000文字)
画像は、正親町天皇(おおぎまちてんのう)。
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2012年3月1日木曜日