さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策
〜 PEK’s à la carte & BookShelf 〜
さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策
〜 PEK’s à la carte & BookShelf 〜
千字でたどる日本の教会史 21)秀吉政権誕生と諸侯の改宗
千字でたどる日本の教会史
21)秀吉政権誕生と諸候の改宗
信長が死んで世は混乱した。その中で秀吉は主君の仇光秀を討ち、ライバルの滝川一益や柴田勝家を滅ぼす。信長の三男信孝を退け、家康と組んだ次男信雄と和を結び、織田家の権力を簒奪(さんだつ)する。家康に臣下の礼をとらせたのが一五八六年。実質的に秀吉政権が誕生した。本能寺から四年余り。前後して、惣無事令(そうぶじれい)なる「私戦禁止令」を出した。戦国大名同士の領土争いを終わらせ、秀吉政権の裁判権による解決を図るものだった。
当時戦乱がやみ、大名や武将たちが各地から政治のため頻繁に大坂に出入りした。その機会に宣教師の説教を聴き、信仰を持つ者が相次いだ。フロイスは書く。「彼らは…純粋な意図から改宗し…妾女、快楽、非道、不正義、残忍、その他の悪に染まった生活を放棄」した。そのためキリシタンの評価が高まり、「貴人たちの一部の者は、キリシタンに改宗せぬ者は貴族に非ずとさえ言う始末であった」と。一五八五年に受洗した大名には、中川秀政、蒲生氏郷(がもううじさと)、羽柴秀勝、黒田官兵衛孝高(よしたか)らが含まれている。
高山右近の人柄や天性の素質は、周囲に大きな影響を与えずにいなかった。他方「つねにデウスのことを口にし、高貴な若侍たちをキリシタンにしようと説得してやまぬ」一面を快く思わない武将もいた。氏郷もその一人で、右近を避けて歩くようになっていたようだ。だが右近は氏郷をきわめて重視し祈った。やがて遂に説得することに成功。「昼夜右近殿につきまとい…教会で聴聞したことについて疑問を解いてくれるようにと頼んでやまない」までになり、氏郷は洗礼を受ける。その後の彼は友人たちに教えを聞くよう説得し、「彼自ら同輩の若者たちに説教し、すべての家臣にもそれを聴聞するよう熱心に勧告した」という。
一五九〇年、ヴァリニャーノが再来日。すでに関白のキリシタン禁教令が出ていた。百二十万石の大名となっていた氏郷は、二度にわたって巡察師を訪れ、宣教の幻を語り合った。迫害の嵐が長崎に吹き荒れても伴天連たちを激励したり、異教徒である家臣団を前に次のように語ったりしたという。「予がキリシタンであることを汝らは知るがよい…予は領地において大々的改宗を実現させる決意である」と。その後、氏郷は四十歳で病死。彼は信長がまず認めた器量人であった。秀吉も氏郷を恐れ「上方に置いておくわけにはいかぬ」と、会津に移封した際に側近に漏らしたほど。だが、右近のように最後まで信仰を貫いたかどうか定かではない。
(1000文字)
画像は、蒲生氏郷
●
2012年3月17日土曜日