さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策
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千字でたどる日本の教会史 19)信長の暴挙と本能寺
千字でたどる日本の教会史
19)信長の暴挙と本能寺
信長は単純な無神論者ではなかった。安土城は政務の場所や要塞というより「神殿」だった。まず、天主の天井には天人御影向(ようごう)の絵画があった。影向とは「神が初めてその本当の姿を現すこと」である。盆山なる御神体の自然石、つまり影向石が地上一階に備えられ、法華経の多宝塔が地下一階にあった。彼は「予みずからが神体である」と語ったという。一五七九年五月十一日、自身の誕生日に信長は天主に入り居住しはじめる。市井の日本史研究家井沢元彦氏によると、仏教、神道、キリスト教の三つで「信長という神」の出現を表現したという。誕生日というところがキリスト教式だ。
一五八二年五月、信長は城郭内に大きな摠見寺(そうけんじ)を建立する。自身の誕生日を聖日として当寺へ参拝し、これに大いなる信心と尊敬を寄せる者に、現世の繁栄、出世、健康、幸福と来世の救済を約束した。これは宣教師と信徒たちを震撼、驚愕、絶望させた。庇護者と思っていた信長が自らを神と称したからだ。同じ年の六月二日、本能寺で信長は横死する。
当時、信長の正統性を否定しうる人物が二人いた。正親町天皇(おおぎまちてんのう)と本願寺顕如(けんにょ)である。日本の権力の正当性は古くから内裏が代表した。顕如は信者たちに生き仏とばかり崇められていた。信長には宗教的カリスマ性がない。そこで考えた。新しい宗教を起こし自らがその開祖となり、天皇中心の日本の古い国体を破壊しよう。実はそれこそ破滅を身に招いた「暴挙」であったとされる。新勢力の信長と旧い秩序を擁護する旧勢力。そのぶつかり合いの中で旧勢力の「手」となったのが明智光秀だった。当人にその自覚はなかったが…。
宣教師は「地上のみならず、天においても己れにまさる主はいないと考えた者はこのように不幸で悲惨な最期を遂げた。…彼の傲慢さが身を滅ぼした…彼の記憶は争乱とともに消え去り、地下の奥底に沈んだ」と書いた。ただ、日本では神々とは人間で、ずっと昔の貴族とか貴族出の主要人物のことを指した。秀吉も家康も自己神格化をした。特別に信長だけが傲慢だったわけではないだろう。信長は宗教戦争のあと真宗本願寺も他の宗門も総赦免し、政治的な意図ではあったがキリシタンを庇護した。武力を使わず政治に口出ししないなら信仰の自由を保証した。本能寺がなければ、神、仏、キリスト教が平和共存する日本社会が生みだされただろうか。あるいは信長が日本版ネブガデネザルとなり、キリシタンの迫害者となったであろうか。
(1000文字)
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2012年2月26日日曜日