さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策
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千字でたどる日本の教会史 18)天正遣欧少年使節(2)
千字でたどる日本の教会史
18)天正遣欧少年使節(2)
一五八二年二月に長崎を発った一行は、二年半の長旅を経てリスボンに到着。途中インドのゴアでやむなく別れを告げたヴァリニャーノは、どんな贅沢もさせずに「教皇への私的な謁見」だけを願った。だが、ポルトガル統治者アルベルト枢機卿、スペイン国王フィリペ二世、イタリアのトスカーナ大公らにより、四人は次第に壮麗な歓待を受ける。優雅な美徳と性格が評価され、尊敬を尽くして迎えられた。教皇庁も負けじと、枢機卿列席公開謁見の開催を決定。一五八五年三月、四少年は「国王と同じ待遇」で、ローマ教皇グレゴリウス十三世に謁見した。教皇の晩年は、日本の使節の訪問により輝かしいものになった。かつてこれほど記念すべき出来事はなかった。遠く離れた主のブドウ畑に蒔かれた種が芽吹き、ついに力ある君主という実りを得た、とまで記された。
「クアトロ・ラガッツィ」の著者若桑みどり氏は指摘する。教皇庁はジュリアンを病気にし、残りの三人を「東方の王」とした。使節はどうしても三人であるべし。仲間の大行列が教皇宮殿に向かう中、一人さびしく宿舎に帰ったジュリアン。晴れ舞台に立ちたい彼の純粋な願いを教皇庁は踏みにじった。四少年のうち、穴吊りの刑によって殉教したのは誰だったか?壮絶にその信仰を貫いたのは?
内部告発者が出た。スペイン人イエズス会士ラモンである。内容は大友宗麟の書状に関する偽造疑惑と四少年の素性に関してだった。「遣欧使節となった少年たちは、日本ではただの非常に貧しく哀れな者たちにすぎません…ローマでは彼らを日本の王侯などと称して待遇された」ことを聞き、「恥ずかしくて顔を覆いたくなるほど」だと書き送った。ラモンは同化主義の立場だった。日本と西洋の対等の交流などあり得ない。日本人は支配、教化、同化すべきで、教皇や西洋の王侯から対等の扱いを受けてはならない。彼らには元々そんな値打ちはない、と。
ヴァリニャーノは「アポロギア(反論)」を書き、誹謗に対する弁明をした。この問題は後々まで尾を引く。若桑氏は評している。「こうした内紛や対立が…フランシスコ会スペイン人によるイエズス会攻撃に引火し…日本の教会の状態を悪化させた…このことの最大の被害は…その後の日本の歴史家が、この外交使節派遣を犯罪視するように」なったことであり、「もともと耶蘇嫌いの日本人に対して、この『醜聞』は格好の攻撃の種を…提供しつづけている」と。たいへん残念である。
(1000文字)
画像は、
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f9/JapaneseDelegatesAndPopeGregory13.JPGによる。
使節は四少年だったはずなのに三人しか描かれていない。その謎が若桑氏の著作で解き明かされている。
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2012年2月19日日曜日