さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策
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千字でたどる日本の教会史 5)キリシタン大名大村純忠
千字でたどる日本の教会史
5)キリシタン大名大村純忠
三十人以上キリシタン大名がいる中で、最初に洗礼を受けたのが大村純忠だった。島原有馬家出身の純忠は、大村純前(すみさき)の養嗣子となった。ザビエルが隣国の平戸に来たその年、十七歳で家督を継ぐ。その頃の肥前は、佐賀に龍造寺氏、平戸に松浦氏がいて、どちらも大村領を狙っていた。純忠は隣国の侵略を防ぐ戦いに明け暮れた。彼が改宗した理由は、ひたすら領土の繁栄とその安泰のためだったそうだ。当時、平戸が安全でなくなったため、ポルトガル人は新しい港を探していた。純忠は自領にある港を提供し宣教師たちに住居も提供する。この政策は成功した。南蛮貿易で領国の財政は豊かになり、最新の武器を手に入れて国防にも役立てた。後に、寒村の長崎をポルトガル人に提供しイエズス会に教会領として寄進。長崎港が大発展する礎を築いた。
彼はどうすれば良いキリスト教徒になれるかパードレから一所懸命に学び、家臣とともにコスメ・デ・トーレスより洗礼を受ける。一五六三年、三十歳だった。領民にも改宗を奨励し、最盛期には信者数六万人を超えたほどになった。紋所は白い地球に緑でJesusの刺繍。その下に捨て札INRIのついた十字架と三本の釘が美しく配置されていた。武将たちは、全員が頸にロザリオと十字架をかけていたという。甥の千々石ミゲルは、純忠の名代として天正遣欧少年使節の一人になった。ただ、純忠の信仰は原理主義的だった。領民の改宗も半ば強要。領内の寺や神社を焼打ちにし墓所も破壊するほど。
彼の特徴を物語るエピソードもある。1)家臣に対し「この世の何をもってしても信仰を捨てない。たとえパードレ全員が信仰を捨ててもわたしは捨てない」と語ったことがある。2)高禄の家臣とその家来が死に沢山の人々が捕虜になった時、純忠は喜んで身代金を払い寡婦、子供たちと家来らを救い出した。この時に救い出されたある家来の長男は、優れたキリシタンとなり迫害下でも棄教しなかった。3)改宗後、彼は妻以外の女性と一切関係を持たなかった。一国の領主としては大変珍しかった。入信の動機とその後の原理主義的行動の是非はあれ、以上のどれも、彼が本物のキリスト者だったことをうかがわせる。秀吉の九州征伐では秀吉側につき、純忠は本領を安堵されている。一五八七年、五十四年の生涯を閉じた。伴天連追放令が出る前だった。たとい嵐の時代まで生きながらえても、誰も彼から信仰を奪えなかっただろう。
(1000文字)
画像は http://www14.plala.or.jp/kyuma/tabi/yokoseura/yokoseura.html
http://rekishi.tsudumi.co.jp/sengoku/今どきキリシタン/
http://www.yomiuri.co.jp/otona/study/busho/110714.htm による。
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2011年11月19日土曜日