さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策
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千字でたどる日本の教会史 4)教会を庇護した大友宗麟
千字でたどる日本の教会史
4)教会を庇護した大友宗麟
宗麟(そうりん)は出家後の名。もとは義鎮(よししげ)だった。彼は海外貿易による経済力、優れた家臣、巧みな外交などにより版図を拡げ、最盛期には九州北三分の二を支配し、南の島津氏と覇を競った。彼は野心的、冷静、冷血、策略家。宣教師を優遇したのは商業誘致のためで、改宗はその結果。歴史家はそう分析する。他方、「あっぱれ天稟(てんぴん)の才に恵まれ、珍しく正しい人であった」と絶賛の声もある。義鎮十六歳の時、ポルトガル商人が来航した。異人たちを殺し財産を奪えと唆された義鎮は、遠方から来た外国人を、罪も理由もなく殺すべきではない。彼らを庇護すべきだと主張。助けられた一人は義鎮の弟の鉄砲傷を癒す。彼がアルメイダの医術に信頼し、病院に土地を与え、慈善を奨励した理由の一つだろう。また、天正遣欧少年使節の一人伊東マンショは宗麟の親戚筋にあたる。国際感覚豊かだった。
別の逸話もある。彼の義兄、田原親賢(ちかかた)の婿養子親虎(ちかとら)が入信した。親賢は「親虎に棄教させよ。さもなくば直ちに教会を破壊しみな殺しにする」と脅す。武装した兵士が到着すると、教会の中には信仰の強い人が死を覚悟して集った。やがて信仰の弱い人や煮え切らない態度の人たちも加わる。紛れ込んでいた仏僧が、「これほど自ら進んで我が身を死に捧げるこの人たちは、死後に期待する至福をもう見ているように思われる。われわれもその至福にあずかるために信者になろう」と言うほどだった。そのとき宗麟が来る。「信仰のことは自由にして各人もっともよしと思うものを選ぶべし」「会堂は自分の保護下にある。反対するならその者の首を斬る」と言って難題を解決したという。
「この教えは予にふさわしいものに思われ、胸中ではよいものであると認めてはいたものの、国を治める者の責任と、日本仏教の奥義を究める努力をしてからにしようとして、洗礼に踏み切らなかった」と、四十八歳で洗礼を受けた宗麟は振り返る。同年、日向をめぐり島津氏と戦う。十字架を旗印に仏教寺院を破壊した。結局、自軍の仏教支持派武将たちのサボタージュもあって手痛い敗戦を喫する。大友陣営はこれを機に崩壊。晩年は秀吉傘下の一大名となった。一五八七年、五十八歳で病没。戦乱のなか夢破れた人生だったが、宗麟はただ手を合わせて祈りつつ逝った。人間は死にあって何も持って行けない。魂を委ねるべきお方を知っている。それで充分だった。
(1000文字)
画像の一部は http://ja.wikipedia.org/wiki/大友宗麟 による。
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2011年11月12日土曜日