さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策
〜 PEK’s à la carte & BookShelf 〜
さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策
〜 PEK’s à la carte & BookShelf 〜
千字でたどる日本の教会史 2)佳き後継者コスメ・デ・トーレス
千字でたどる日本の教会史
2)佳き後継者コスメ・デ・トーレス
バレンシア出身のコスメ・デ・トーレスは、一五四六年、東南アジアのモルッカ諸島で運命的な出会いを経験する。ザビエルである。彼の情熱に共鳴したトーレスは、インドのゴアに同行してイエズス会に入会する。三年後の一五四九年、ザビエルと共に鹿児島に上陸。一五五一年、日本を去ったザビエルの後を継いで日本宣教の責任者となり、山口、九州各地で地道な宣教を続ける。
戦国時代の宣教は困難を極めた。せっかく教会を建て信者が増えても、庇護を受けていた大名が隣国に攻撃されると、教会は焼かれ、みな安全な地域への避難を余儀なくされた。領主が心変わりして禁教となることも度々である。だが、トーレスは日本人信徒の協力を得、若い宣教師たちを育て、社会事業を起こし、貧しい人は信者であるなしを問わずに助け、仏僧たち知識人の議論に答え、大名や家臣にも福音を伝えた。政治的不安定の中、信徒の数は徐々に増えて行った。一五五九年には念願の京都宣教を開始。信長上洛が一五六八年。治安が安定して畿内の宣教が軌道にのるちょうどその頃、トーレスは天草にて死去。一五七〇年だった。
当時欧州において、新たな宣教地に住む人々は、支配し、教化し、同化させるべき存在にすぎなかった。だが、トーレスは日本文化を尊重し、肉食をやめて質素な日本食を食べ、日本の着物を着て暮らした。欠点を受けとめた上で、日本の文化や日本人の優れたところを認めて日本人を愛し支えた。イエズス会内部にも反対者がいたほどで、画期的なことだった。美しい話が残っている。一五五七年のクリスマスのあと、豊後のある村に信者らを尋ねた。厳寒の中トーレス一行に食べ物が尽きる。ひとりの極貧のキリシタン老女が非常に感激し彼らを迎えた。食事はわずかに甘蔗と蕪だけだったが、彼女はありあわせのわずかな藁を燃やして火を起こし、愛と喜びをもってパードレたちに何くれとなく心尽くしをしてくれた。そのため、道中の難儀はことごとく変じて喜びと化したほどだったという。
トーレス来日時、一人の信者もおらず一つの教会もなかった。だが二十一年後、京都、堺、山口、豊後、博多、肥前、肥後などに多くの教会と信者が多数誕生していた。ひとえにトーレスの「適応主義」のたまものだった。ザビエルの夢はトーレスが実現させた。ザビエルほど評価されてはいない。しかし、むしろ一事をやり遂げた地味なトーレスの方に強く惹かれる。私だけではないだろう。
(1000文字)
画像は http://www.manresa-sj.org/stamps/1_Torres.htm による。
●
2011年10月30日日曜日