さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策
〜 PEK’s à la carte & BookShelf 〜
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i )「心でっかちな日本人」
i)心でっかちな日本人 — 集団主義文化という幻想 —
山岸俊男著 2010年2月 ちくま文庫 780円
「2002年 日本経済新聞社刊」の文庫版
当たり前と思っていた概念をひっくり返されそうになるとき、それを人は容易に受け入れられないものだ。「心でっかち」という言葉を聞いたとき、私はなかなか理解できなかった。「頭でっかち」に対する用語だということはわかったが、心にストンと入って来ない。
「いじめをする子どもたちは、他人に対する『思いやりの心』が欠けているのだ」
「バスジャックなど凶悪犯罪が次々と起こるのは、犯人の『異常ですさんだ心』のせいだ」
「日本人が戦争をしたのは、『長いものには巻かれろ』式に権威や集団への隷属心をもっていた『日本人の心のあり方』のせいで、民主社会が育っていなかったからだ」
「戦後の高度経済成長は日本人の勤勉な労働観と集団内で協調的に行動できる『心のあり方』によってもたらされた」
これらは我々があまり疑問を抱かずに受け入れてきた考え方だ。
しかし社会学を専攻する著者は、何でも「心のあり方」に説明を求めることに疑問を投げかけている。それらは単に「頻度依存行動」で、多くは「相補的な均衡」状態にあるだけと解説する。著者らが行なった研究の実例などをふんだんに入れて順を追って説明している。
著者によると、あるクラスからイジメがなくならないのは、イジメに抗議して自分もイジメの対象となってしまうリスクを侵すよりも、見て見ぬ振りをしてやり過ごした方が自分にとって得になるからだという。
極めて利己的に見えるが、著者は次のように述べる。ベトナム戦争時のソンミ村での虐殺の場面で、「殺さないでくれと懇願している村人をまえにした一人の兵士が上官に抗議するかどうかは、ほかの人たちがどう行動するかに依存している」と。
兵士たちは、上官に抗議する人の人数、すなわち「頻度」に依存する行動をとった。勇気ある人数が少なかったので虐殺が起こった。あるクラスのイジメの話でも、イジメっ子に立ち向かう人数に依存する行動をとる。すなわち「頻度依存行動」であると著者は解説する。
また、イジメがなくならないのは、いわばある種のバランスがとれた状態に達している結果なのであって、「思いやりの心」が足りないからでは決してないらしい。価値観を込めた表現をすれば『歪んだ』バランス状態である。それを著者は「相補的な均衡」状態と呼ぶ。
逆の状態にもなる。たとえば、同じクラスに金八先生のような熱血教師が着任する。やがて、その歪んだバランスが別の方向にシフトする。つまり、見て見ぬ振りをするよりもイジメに対して立ち上がった方がクラスのなかで得になるという変化が起こる。
これもイジメに対して立ち上がる生徒の人数に依存している「頻度依存行動」である。クラスのメンバーに「思いやりの心」が出てきたというより、全く違うバランス(相補均衡)に移っただけだという。価値観を込めると、正しいバランスと表現して良いかもしれない。
そのあと熱血先生が転校し普通先生が担任になっても、クラスにイジメは起きない。多くの生徒がイジメに反対する方を既に選び、イジメをしない状態に「相補均衡」がシフトしているからである。著者はグラフを使って分かり易く示している。
日本人は決して「集団主義」的ではなく、アメリカ人よりも個人主義的であるらしい。著者は実験例を示して説明する。自分が属している集団をひいきする行動、つまり「うち集団ひいき」の行動をとっているだけだという。
私たちは、文化とは世代を通して安定している「心の性質」であると考えている。それならば、文化が変化してゆく速度は比較的ゆっくりしたものとなる。しかし著者は、日本人のいわゆる「集団主義」は急速に終焉を迎えるのではないかと予測している。
何故か。文化とは私たち自身の行動によって生みだしている「相補均衡」だと、著者は考えている。もしその通りならば、集団主義的行動をとる人々の比率は、ある時点で加速度的に減少する可能性があるというのである。
これまで日本社会に安定性を与えていた集団主義的な「内集団ひいき」の原理が消滅する。しかも、「内集団ひいき」の原理にとって代わる原理が一般化する前に消滅し、社会秩序を維持するための原理がない、いわば「真空状態」を生み出してしまう可能性があるというのだ。
著者によると、終身雇用制度と年功序列型賃金体系は「うち集団ひいき」の原理の象徴である。その恩恵にあずかる人々は、確かに年々少なくなってきている。現在のそうした混迷の状況は、日本がもっと混乱し不安定になっていく序章に過ぎないのかもしれない。
文化は世代を通して安定したものである。「心の性質(ありかた)」こそ文化そのものである。我々は、そうした信念のもとに将来を予想しようとしてきた。しかし、著者の問題提起によると、それは誤解らしい。間違いらしい。
では、今後どうやって未来を見据えていけば良いのだろうか。いったい日本と日本人はどこへ漂流してゆくのだろうか。
著者が直接出している例ではないが、日本人がむかし戦争に賛成して協力したのも、いまありとあらゆる戦争に反対しているのも、「心のあり方」に変化が生じたからではないのかもしれない。
ただ「頻度依存的」に行動し、「相補均衡」に達している結果を見ているに過ぎず、どちらの時代でも、日本人は集団内で自分に有利なように行動しただけかもしれない。「相補的均衡状態」がシフトしただけなのだ。
すると、国防、国益、平和運動などといった対立軸の鮮明な課題も、「心のあり方」に焦点を当ててしまうと、愚かで的外れな議論となってしまい、国将来を再びあやうくすることになるだろう。
「心でっかち」がわかりにくかったという最初の感想など、全く取るに足りないものに過ぎなかった。それが読後の最大の印象である。もっと言えば、この本を読んで私は自分の中のパラダイムシフトを感じて動揺を覚えている。「社会学恐るべし」とでもいうべきか。
詳細な実験内容が紹介されていて必ずしも一般向けとは言えない。文章も一文一文が長く、複雑な印象が否めない。そのせいもあるのか、全体として内容も決して読みやすくはない。ただ、読者が理解しやすいようにと随所に工夫がなされている。一読に価する本だ。
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2010年3月26日金曜日