さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策 

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〜 PEKのひとりごと PEK’s soliloquy Mental Health Spot 〜

 
 

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 メンタルヘルス面で大きな課題を抱え、様々な症状に苦しんでいる患者さんが大勢いる。特に、クスリは効かないし、精神療法も武器になりそうにない。家族も苦しんでいるし、一見して手の打ちようがないと思える。そういった人々である。


 その回復を支援するために、我々は臨床現場でいったい何ができるのだろう。ご本人や家族のみなさんにどのようにアドバイスし、支援をしてゆけるだろうか。


 はたして、我々に臨床上の有用なツールはあるだろうか。クスリを使わない精神療法を、もっとしっかりと有効活用できないだろうか。判断を大きく誤らせないためにも、精神分析や深層心理学が、小さいながらもその役割を果たせないだろうか。


 かつてのような古典的な精神分析は、米国やフランスであっても既に見られなくなっている。クライアントが仰向けになり、側の椅子に座っているセラピストに自分の見た夢の話をしたり、幼少期の出来事などを自由連想で話したりするタイプのセラピーのことである。


 現在では、もはや精神分析、深層心理学は流行らない。無力なように見える。はたして、精神分析、深層心理学は、現場で何か役立つのだろうか。


 本稿では、ジャック・ラカンの理論をとりあげる。臨床への応用に関する若干のコメントとともに紹介する。


 ジークムント・フロイトが提唱した精神分析を引き継いだ人々がいる(図1)。


 自我、自我境界を扱ったポール・フェダーン、対象関係論という領域を開いたメラニー・クライン、自己愛を掘り下げたハインツ・コフート、言語を重視し「象徴界」という概念を提唱したジャック・ラカンなどである。


        

         図1 精神分析、深層心理学の系譜(1)


 フロイト存命中、アドラー、ユングらは破門され、あるいは離反し、深層心理学の流れを作った(図2、黄色)。フロイト後継者の間でも内紛が相継いだ(図2、左側)。ジャック・ラカンは「フロイトに還れ」と提唱し、フロイト後継者の主流を自任した(図2、緑色)。


        

         図2 精神分析、深層心理学の系譜(2)


 ジャック・マリー・エミール・ラカンはフランスの精神分析家である。その理論は、もう臨床上有用とはあまり見なされていないという。著作はあまり残していない。主に講義録などでその理論が現在にまで伝えられている(図3)。


        

         図3 ジャック・ラカン


 ラカンの発達論の概念を簡単にまとめると次のようになる。


 (1)自己の統一性を獲得していない幼児が、

 (2)鏡像的段階と呼ばれるステージを経て、

 (3)言語を覚えて「象徴界」とよばれる領域へと入って行き、

 (4)自己同一性、主体性を獲得して、年をとるまで成長し続ける(図4)。


 それぞれで用語の定義を概説しなければならない。それは後述するとして、とりあえず、(1)~(4)がラカンの発達論のあらましである。


        

         図4 ラカンの発達論的概念


 まず、幼児は、まだ身体的統一性を獲得していない。しかしある日、鏡に映った自分の姿を通して、自分が統一体であることに気付きはじめる。同様に、他者を「鏡」とすることによって、他者の中に自己像、自我があることを見出す。これが「鏡像的段階」である(図5)。


        

         図5 鏡像的段階(1)


 幼児は鏡を見ることによって、自己の全体像を生まれて初めて発見する。この時の体験が自己愛の基礎となる。また自分にとって「鏡」は一挙に特別な存在となる(図6)。


        

         図6 鏡像的段階(2)


 ラカンによると、身体的統一性のない状態の幼児は、空虚な「エス」(脚注1)しか持っていない。鏡に映る自分の姿や、視界にある他者に自己像、自我を見出す。やがて「エス」の上に自我が覆いかぶさり、「エス」の空虚さや無根拠性を覆い隠すという(図7)。


 これが自我の構造と言っても良いものである。幼児は「全能感」とも呼べる充実した気持ちを抱いている。そのまま安住したくなる。いわば想像的な段階であるという。


        

         図7 ラカンの自我


 鏡像段階についてもう少し補足する。実は、鏡に映った自分の姿は左右反転している。本物ではなくニセモノである。それでも幼児は鏡に移った自分の姿を見るのがうれしくて仕方がない。愛の対象となる(図8)。


 また、ニセモノも愛の対象とできる。それゆえ、幼児(人間)は自分とは全く似ていないものも、愛の対象とすることができる。たとえば、動物とか無機物(ブランケット)とかである。


        

         図8 鏡像的段階の補足(1)


 補足を続ける。愛に基づく(関係した)感情も鏡像的になる(図9)。「愛すること」は「愛されること」と鏡像的関係となる。「憎むこと」は「憎まれること」と関係づけられ、「信頼すること」は「信頼されること」、「保護すること」は「保護されること」に結びつく。


 こうして幼児は、愛に基づく感情を鏡像的に理解してゆくことになる。


        

         図9 鏡像的段階の補足(2)


 実は、鏡像的段階での関係性は、「自分」対「鏡像」の二者関係というより、「自分」対「鏡像」対「母親」の三者関係だと言われる(図10)。


 鏡に映ったイメージを、「そう」「それがお前だよ」と承認してくれる母親の存在が欠かせない。このステージで母親が役割を果たせないと、幼児自身が将来にわたって何らかの形で不安定になる可能性がある。母親の役割は重要である。


        

         図10 鏡像としての家族


 ここまで、まずラカンの発達論を概説した。次の四つが概要である。


 (1)自己の統一性を獲得していない幼児が、

 (2)鏡像的段階と呼ばれるステージを経て、

 (3)言語を覚えて「象徴界」とよばれる領域へと入って行き、

 (4)自己同一性、主体性を獲得して、年をとるまで成長し続ける。


 その中の、(1)と(2)を説明した。自分の鏡像や他者を見ることによって、自己や自我を発見するに至る。そして、母親から「そうだよ」「それがお前だよ」と承認を得ることによって安定してゆく。


 次は、(3)と(4)、言葉を獲得して自己同一性と主体性が出てくる段階である。その意味するところについて述べる。(つづく


脚注

1)フロイトは、人間の根源的な欲動を代表するEs(エス)と、欲動の満足に関して内的な規範としての機能を果たすÜber-Ich(超自我)、さらに上記二つの葛藤を調整し、外界の現実に適応する機能を担うIch(自我)を定義した。


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