さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策
What should we do now? Explore the history of Japan and the world.
〜 PEKのひとりごと PEK’s soliloquy 〜
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xiii’’’’’’’’’’’’’)番外編12 日本滅亡と帝国海軍(Ⅹ)陸海軍統帥権分裂
大東亜戦争において帝国海軍は勝手に暴走した。ひどい戦い方をした。これまで見てきた通りである(脚注181)。
帝国海軍は、何故このような戦い方しかできなかったのだろうか?何故、海軍にあれほど非常に大事なことを任さざるを得なかったのだろうか?そもそも暴走を許してしまったのは何故なのだろうか?今回はその答えを探っていく。
統帥権の問題
明治憲法では、名目上とはいえ天皇が軍隊の統帥権を持っていた。当初、ゆるやかなシビリアンコントロールが実現してはいた。しかし、次第に政争の道具とされ、政治家が軍隊のことに本当に口出しできない慣例が出来上がって行った。統帥権独立の問題である。
しかし、それとは別の統帥権独立問題が存在した。海軍の統帥権のことだ。
明治維新以来、わが国の軍隊はもともと「陸主海従」だった。陸軍参謀総長が海軍を含む統括の任に当たってきた。当然、海軍は不満である。やがて、海軍は陸軍への従属に抵抗を示し始めるようになる。「海主陸従」への転換。これが海軍の悲願となっていった。
一八九三年、海軍の強い要請により「海軍軍令部条例」が制定される。平時における陸海軍軍令部が並列対等になった。ただ、同時に「戦時大本営条例」が制定され、戦時は陸軍参謀総長が陸海軍軍令部を統括することになった。
それで統一の取れていた時代の日清戦争は、高度な陸海軍統合作戦を展開できた。ところが、日清戦争後に海軍は戦時における陸海軍対等を主張し「戦時大本営条例」改訂を願い出る。この問題に結論を出さずに長い間時間が経過する。
日露戦争という国難
露との対決が不可避になってきた一九〇三年、対露戦計画を立案していた時の参謀次長が死去。後任を引き受けたのは前にも挙げた児玉源太郎である(脚注53)。台湾総督と内務大臣の両方を努めていたのを、大山巌参謀総長から特に請われての降格人事だった。
図47 児玉源太郎
児玉は国際情勢や列強の力関係も踏まえて戦略を立てた。広い視野の持ち主だった。日露戦争の勝利は、児玉の陰の尽力によるところが大きかったという。彼が手がけたのは、
(1)日露戦争全体の戦略立案
(2)満州での実際の戦闘指揮
(3)戦費の調達
(4)米への講和依頼
(5)欧州での帝政ロシアへの革命工作
(6)児玉ケーブルと呼ばれる海底ケーブルを日本周辺に張り巡らせ、
情報のやり取りを迅速に行なえるようにした、など多岐にわたる。
当時の露は日本の約十五倍の通常兵力を持ち、国家予算も日本の約八倍だった。世界一〜二を争うほどの超大国だ。日清戦争でも、この日露戦争でも、時代が下って対米戦争でも、日本は何という身の丈を越えた強敵に対して無謀とも言える挑戦を続けたことだろう。
圧倒的に不利な状況の中で日本に勝利をもたらした。その功績は高く評価され、日露戦争を勝利に導いた英雄の一人とされている。「外相や参謀次長を調整して政略と戦略の両面で桂総理を補佐する副総理格の大物」だった(脚注55)。
ただ、児玉が参謀次長就任当時に直面したのは、混乱する戦略方針の統合問題であった。当時、三つの方策が論じられていた。1)実質陸軍が実権を掌握する参謀本部の満州決戦構想、2)海軍山本権兵衛の大陸朝鮮半島放棄案、3)伊藤博文の対露協商論。
伊藤の3)は相手国露の強硬姿勢のため断念せざるを得なかった。海軍は2)でもともと露と戦う気はなかった。そこで児玉がやむなく選択したのは、海軍と妥協し1)に協力させることだった。
まず、a)「戦時大本営条例」を海軍の願い通り改訂し、戦時も海軍が独立した統帥権を確保できるよう担保した。b)陸軍の予算を一部まわして「日進」「春日」の軍艦購入にあてた。c)露の軍港「旅順」は海軍担当とし、陸軍は口出しするなという言い分を受け入れた。
これで海軍は、参謀本部(陸軍)案に賛成した。ここに、国家存亡の危機である日露戦争の戦略方針統合がようやく実現する。海軍は喜んで独立統帥権を手にした。児玉としては、統帥権分離の弊害は戦争が終結した後に改訂すればよいという腹づもりだった。
一九〇四年二月に開戦。海軍が独立した統帥権を持つようになったため、実際の戦いではさまざまな困難にも直面した(脚注182)。日清戦争のような高度な陸海軍統合作戦は実現できなかった。それでも日本は何とか勝利できた。一九〇五年九月に講和条約を結ぶ。
統帥権独立の固定化
戦後になって、児玉は日本をどのような方向に持ってゆくべきか、あらゆる面で苦労を重ねる。その中に陸海軍統帥権の再統合問題が含まれていた。
しかし、ここで悲劇が起こる。将来の日本に重大な影響を与えるほどの出来事だった。日露戦争中とその前後で、獅子奮迅の働きを見せていた児玉源太郎が帰らぬ人となった(脚注183)。一九〇六年七月二十三日のことだった。享年五十四歳。死因は脳血管障害。過労のためもあっただろうと言われる。
児玉の死について、台湾総督の任にあたった後藤新平は次のように号泣して叫んだという(脚注58、184)。「遼東半島租借権、南樺太割譲、満鉄譲渡、その他のすべてを合わせても、この偉大な指導者を喪った損失を補うことはできぬ」と。
海軍は前述した通り、児玉の死を奇禍としたかのように真っ向から「軍縮」に反対した(脚注185)。そして海軍は、一度手にした統帥権を手放さなかった。
かくて陸海軍はバラバラの組織となる。戦略立案の主体は陸海軍それぞれの官僚の手に移ってしまった。国家戦略ではなく省益優先の戦略を勝手に主張し始める。特に海軍省は、「海主陸従」への根本的な転換を実現しようと模索するようになる。
三十数年経って、真珠湾攻撃後に「全作戦を引き回すのは連合艦隊なり」と山本五十六は広言したという。その時の海軍首脳の気持ちはどのようなものだっただろう。連戦連勝、大成功(?)に浮かれていた時だ。「念願の『海主陸従』をようやく実現できた」という気持ちが混じっていたに違いない。
海軍の暴走は(脚注186)、陸海軍の統帥権分裂が固定化したことに始まった。日露戦争に勝つという戦略的観点から児玉源太郎がやむなく選んだ「戦時大本営条例改正」が引き金になっている。
しかし、児玉は逝ってしまった。陸海軍統合参謀本部が国家戦略を本気で担う「システム」を構築する前に。やがて、陸海軍は統合参謀本部を形だけの形骸化したものとしていく。それが三十数年後の日本に禍根を残すことになる。
海軍の暴走は、日露戦争の後で児玉源太郎のような人物を輩出できなかったことにも原因がある。児玉のような視野の広さと深い見識を持った、卓越した戦略家を生み出すことに日本は失敗した。適任者がいても惨殺されたりした(脚注187)。
私たちは、リーダーが出て来にくいシステムをこの国の内部に抱えている。混迷、混沌の中にある現代の日本にあっても、意識的にリーダーを育てなくてはならないだろう。(つづく)
脚注
38)佐藤晃「太平洋に消えた勝機」光文社ペーパーバックス、2003年。
53)児玉源太郎:http://ja.wikipedia.org/wiki/児玉源太郎:日露戦争開戦前には台湾総督のまま内務大臣を務めていたが、 明治36年(1903年)に対露戦計画を立案していた参謀次長の田村怡与造が死去し、大山巌参謀総長から特に請われて降格人事でありながら、両職を辞して田村の後任を引き受ける。日本陸軍が解体する昭和20年(1945年)まで、降格人事を了承した人物は児玉ただ一人である。日露戦争のために新たに編成された満州軍総参謀長をも引き続いて務めた。児玉は国際情勢や各国の力関係を考慮に入れて戦略を立てることの出来る広い視野の持ち主であった。日露戦争全体の戦略の立案、満州での実際の戦闘指揮、戦費の調達、アメリカへの講和依頼、欧州での帝政ロシアへの革命工作、といったあらゆる局面で彼が登場する。当時のロシアは常備兵力で日本の約15倍、国家予算規模で日本の約8倍という当時世界一の超大国であり、日本側にとって圧倒的不利な状況であったが、それを覆して日本を勝利に導いた功績は高く評価されている。また、児玉ケーブルと言われる海底ケーブルを日本周辺に張り巡らしたことで、現代戦で最も重要と言われる情報のやり取りを迅速に行えるようにした。このことで、日本連合艦隊は、大本営と電信通信が可能となって、大本営が自在に移動命令を出せるため、日本海海戦のためだけに、全軍が集結することが可能になった。アメリカ国防総省を中心に唱えられている最新の軍事ドクトリンの一つネットワーク中心の戦い(Network-centric warfare,NCW)を100年も前に実現させて、日本海海戦の大勝利をもたらした功績もきわめて大きい。今日では東郷平八郎、大山巌、乃木希典らと共に日露戦争の英雄として有名である。
55)佐藤晃「帝国海軍が日本を破滅させた」(上)光文社ペーパーバックス、2006年。
58)佐藤晃「帝国海軍が日本を破滅させた」(下)光文社ペーパーバックス、2006年。
99)新野哲也「日本は勝てる戦争になぜ負けたのか」光人社、2007年。
104)ジェームズ・H・ウッド「『太平洋戦争』は無謀な戦争だったのか」茂木弘道訳、ワック株式会社、2009年。
141)さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策、番外編12、日本滅亡と帝国海軍(Ⅵ)、帝国海軍の暴走
142)さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策、番外編12、日本滅亡と帝国海軍(Ⅶ)、国家総力戦って?
165)さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策、番外編12、日本滅亡と帝国海軍(Ⅴ)、基本戦略は何処
166)さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策、番外編12、日本滅亡と帝国海軍(Ⅷ)、帝国海軍の病理
181)大東亜戦争において帝国海軍は勝手に暴走した。ひどい戦い方をした:その例は、次のようにリストアップできるだろう。
a)米国や世界と戦うことの全てが、戦術や戦略を含めて自分に任されている考えた。
b)国家としての基本戦略を無視した。
c)国家として立てた絶対国防圏構想も骨抜きにした。
d)艦隊決戦という戦術だけに興味があり、それだけに集中していた。
e)高度な陸海軍統合作戦を行なうことができなかった。
f)通商破壊戦をしなかった。
g)自軍の後方兵站を重視しなかった。
h)前方決戦至上主義だった。
i)攻勢終末点を知らなかった。
j)消耗戦を強いられ敵術中に嵌った。
k)そもそも国家総力戦というものを理解していなかった。
l)どのように戦争に勝つか、どのように終わらせるか戦略がなかった。
m)航空機搭乗員の補充計画が杜撰だった。
n)メンツにこだわりウソの報告をして軍首脳部、政府、国民を欺いた。
o)撤退という決断がなかなかできず、徹底的に守るという意識が薄かった。
p)臆病だった。敵艦隊を打ち破っても、
トドメの一撃を食らわせず敵空母を逃げるに任せた。
q)臆病だった。戦術的に勝利を得ても、
戦略目標である輸送船団や輸送物資を攻撃しなかった。
r)臆病だった。敵より戦力が優っていた時期に全力で戦おうとしなかった。
s)敵を侮った。
182)後述する。
183)児玉源太郎が帰らぬ人となった:http://ja.wikipedia.org/wiki/児玉源太郎
184)後藤新平:http://ja.wikipedia.org/wiki/後藤新平
185)さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策、番外編12、日本滅亡と帝国海軍(Ⅳ)決定的対決へ
186)海軍の暴走は:そして陸軍の暴走も?陸軍が露ソを仮想敵国とし海軍が米を仮想敵国とするという、およそ近代国家にそぐわないバラバラの国家戦略しか立てられなくなってしまった。統帥権が天皇にあるというシステムおよび陸海軍分裂が固定化したことに日本の悲劇がある。
187)適任者がいても惨殺されたりした:http://ja.wikipedia.org/wiki/永田鉄山
(4851文字)
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2011年4月23日土曜日