さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策
What should we do now? Explore the history of Japan and the world.
〜 PEKのひとりごと PEK’s soliloquy 〜
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xiii’’’’’’’’’’’’)番外編11 物の理(ことわり)(Ⅰ)理性の通じない国
事件が起こると私たちはまず真実を明らかにしようとする。何が起こったか分からない段階では、断定を避け相手に配慮した態度をとるよう努める。真実を突きつけられると私たち日本人はたいてい反論しない。いわば真実の前に沈黙し真実を尊重する。
実証できることに基盤を置く。実証主義的スタンスの一つの現れである。日本人も欧米人も、科学といえばほぼ自動的に自然科学、物理や数学、実証可能な思考のことをさす。
しかし、世界にはそういった考えをしない人たちがいる。端的に言おう。儒教に縛られた国の人々のことだ。
物の理(ことわり)を理解しない人々
国家基本問題研究所というシンクタンク客員研究員の金谷譲(かなやじょう)氏が解く。中国人はそもそも、古代から現在まで「物の理(ことわり)」を理解できない人々だ、と。そう中国人の思考の特徴を分析して言っている。
「理(ことわり)」が通じないので、「理(ことわり)」によって外交問題を処理しようとする日本や欧米諸国と往々にして摩擦を起こしがちだという(脚注1、脚注2)。
金谷氏は続ける。中国には科学的で民主的な思考が根付いていない。それは、彼らの思考の中で「倫理」と「物理」が基本的に未分化だからだ、と。仮説を立てて推論し、それを実験によって検証するという自然科学的思考様式が彼らの中に存在しないのだという。
中国歴代王朝下の伝統的な思想は「儒教」だった。儒教では、人間は倫理的行動によって自然法則を左右できると考えるらしい。そのため、結果よりも心情倫理を重視するスタイルの思考が生まれるという。
動機が善なら結果にかかわらずその行為は讃えられる。動機が悪なら結果が良くても全く評価できないという考えである。好例が二〇〇五年の反日デモで若者たちによって唱えられた「愛国無罪」だ。
正義は中国にある。中国人は正しい。何をしても良い。他方、日本は本質的に野蛮で軍国主義の民族だ。それゆえ日本人がやることはすべて悪である。そういう考えから「愛国無罪」と叫び、投石、暴動、暴行を繰返したのだ。
二〇一〇年のノーベル平和賞受賞が決まった劉暁波氏も同様のことを語っている(脚注3)。「中国の『実用理性』と西洋の実用精神にはなんの共通点もない」
図1 二〇一〇年のノーベル平和賞受賞が決まった劉暁波氏
西洋の理(ことわり)は、「事実」だけを「真理の検証の基準」としている。その際「ただ真実であるか否か」を問うだけだ、と。
西洋の実用理性では、「政治的利益と道徳的善悪」は決して問わない。「真実が宗教的タブーや権威の意志」に反するとき、「真実が政治的権力や道徳規範および社会常識」と衝突するときどうするか。「実証主義の精神は真実だけに従う」と、劉氏は表現している。
西洋の「理(ことわり)」ならば「真実」にだけ従うのである。しかし、中国の「実用理性」は、西洋の「理(ことわり)」とは全く逆に、事実や真実と向き合うことを最も嫌う。「ただ政治権力と道徳規範だけに従う」という特徴を持っている。そのように劉氏は書く。
中国人にとって「事実」は問題ではない。実はどうでも良いことなのだ。彼らが主張すること、それこそが彼らにとっての「事実」である。主張と現実が異なれば、主張に合わせて現実を変えようとする。それが儒教国家として長く脈々と受け継いで来た考え方と態度だ。
彼らは日本人の言うことに聞く耳を全く持たない。海上保安庁の船に体当たりをしたのは中国の漁船だと言っても、違う理屈を述べて自分の非を絶対に認めない。悪いのは日本だ。その一点張り。動画を見せられても何の動揺もしない(脚注4)。
「そもそも尖閣諸島は中国の領土だ。東シナ海は中国の海だ。尖閣周辺の中国の領海内で日本の海上保安庁の船が中国の漁船を取り囲んだ。日本側が衝突事件を引き起こした。すべての責任は日本側にある。」中国は事実をねじ曲げて強硬な主張を繰返す。
要するに話が通じない。自己中心的で独善的な中華思想。倫理的に見ても他国の人々からは絶対に理解できない。彼らを話合いで納得させること自体が不可能に見える。最初の段階から映像を公開して証拠を突きつけ、事実を国際社会にハッキリと知らせるべきだったのだ。(つづく)
脚注
1)金谷譲「中国ではなぜ”科学的&民主的”思考が根付かないのか~日中の”理”概念の違いから見る」in「中国はなぜ『軍拡』『膨張』『恫喝』をやめないのか」文藝春秋、2010年。
2)「理(ことわり)」が通じないという事実は、科学でオリジナリティーの高い研究ができないことに繋がるだろう。北村 豊「中国人はどうしてノーベル賞を取れないのか?」
http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20101013/216628/?P=1
北村氏ではないが、何千年もの儒教精神が染み付き、民主主義のない国からは、ノーベル賞受賞者が今後も生まれない、と断言(予想)している人もいる。
3)劉暁波「現代中国知識人批判」野沢俊敬訳、徳間書店、1992年。
4)中国に配慮して映像を公開しないというのは全くナンセンスである。映像を見て「私たちが悪うございました」と非を認めることはない。「メンツを潰された」と映像を公開されたことを恨みに思うこともない。動じた様子を外部に見せることは全くない。逆に、はっきりとしたことを自己主張せず映像も早期に公開しなかったことについて、向こう(日本)に何かやましいことがあったからに違いないと指摘するだけである。そして堂々と日本の非と不法を主張し責め立てる。そもそもそこは元々自分たちの領土だ。だから体当たりをしても、される日本の船の方が悪い、と。こうして、相手が悪いという印象を周辺国に与え、徹底して状況(現実)を自分に有利な方向に持って行こうとする。それだけである。
(2391文字)
2010年11月28日日曜日