さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策
What should we do now? Explore the history of Japan and the world.
〜 PEKのひとりごと PEK’s soliloquy 〜
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xiii’)ピースメーカー(番外編) 歴史の逆説(Ⅱ)政教分離の確立
信長の歴史的役割について思いを巡らせている。政教分離についてである。
日本では、当初キリスト教信仰が広く受け入れられ始めていた。信者が爆発的に増えていった。しかし、豊臣秀吉によってバテレン追放令(脚注7)が出され、徳川家康が禁教令によってキリスト教を実質的に禁止した(脚注8)。
当時、スペイン、ポルトガルは、ローマカトリック教会を後ろ盾に世界分割を行っている最中だった。東経一三五度によって、日本は真っ二つに分けられてしまっていた。両国による植民地獲得競争の最前線だった(脚注9)。
すぐには実現が不可能であったものの、両国はまず根拠地を相手国の中に作り、何年もかけてその根拠地を強固なものした。地盤を徐々に拡げ、さまざまなことを口実に利権を増やしたり戦ったりして、やがて相手国を植民地にしていった。
イエズス会(脚注10)、フランシスコ会(脚注11)などの宣教団体は、言ってみれば両国の先兵隊だった。日本の指導者である徳川家康からすると、日本の独立と安全を守るために、キリスト教を禁じた。
もし、ヨーロッパが政教分離を先に完成していたならば、日本の歴史はどうなっていただろう?イエズス会などの宣教団体が布教する時に、相手国を母国の植民地にするような行為に加担しなかったなら、物事はどのように進んだだろう?
そういった歴史を積み上げていったならば、キリスト教は決して警戒されなかったに違いない。日本での信者も増え続けていったかもしれない。もっとも、宣教師たちが母国の直接サポートなしに活動できたかというと、とうてい無理な話だったであろう。
秀吉や家康は、無垢なキリスト教徒を迫害して殺した。野蛮な指導者である。現代に生きる我々にとってはその通りだ。日本の政治的指導者は、信教の自由を認めず、無抵抗なキリシタンを迫害した。冷酷で無慈悲だった。
しかし、これは一方的な立場からの意見かもしれない。信教の自由とは、現代先進国の間でようやく確立された人権にすぎない。非常に新しい尺度で物事を言おうとしている。
別の見方もある。迫害の犠牲となった殉教者らは、確かに武器も持たない無抵抗なキリシタンだった。だが、彼らのバックには、国家と結びついた戦闘的な当時のキリスト教があった。
日本での宣教の道が閉ざされた一つの理由は、キリスト教と国家が結びついていたヨーロッパ諸国の負の側面があったからである。あわれな殉教者は、政教分離を完成させていない、戦闘的なキリスト教国家および戦闘的なキリスト教会の犠牲者だったと言えるかもしれない。
戦闘的なキリスト教国家とそれに対抗して独立を守ろうとする非キリスト教国家(日本)の鬩(せめ)ぎあいは、確かに日本に存在した。決して、迫害者の無慈悲な行為を弁護するわけではないが、日本の殉教者は、その冷酷な軋轢(あつれき)による犠牲者と言えよう。
信長が心理的な政教分離を実現して三〇〇年近く経った頃のことを考えよう。鎖国が解かれ、キリスト教が再び伝えられた時、伝える側の欧米諸国は政教分離を完成させていたか?近代化が遅れた地域を武力で植民地化する帝国主義的発想を、欧米諸国は捨てていたか?
否である。政教分離は道半ばだった。アジア諸国および日本に対して牙をむき、国家の欲望のまま、次々と植民地化していった。日本は、帝国主義的な欧米諸国と対決せざるをえなかった。当時の日本は、戦闘的な欧米諸国と真っ先に対決した、数少ない国だった。
織田信長は政教分離を実現した。比叡山延暦寺や本願寺派を殲滅したあと、人々が天台宗や一向宗の信仰を持つこと自体を、信長は禁じたか?「総赦免」「往来自由」として、信教の自由を保障した。前稿に書いた通りである(脚注2)。
信長の政教分離政策に逆らわない限り、キリスト教徒もその信教の自由を保障されたに違いない。もしも信長が本能寺で非業の死を遂げなかったとしたら、歴史はどのように展開したことだろう。
だが、信長の後継者たちは、キリスト教を禁ずる方向へ舵を切った。せっかく信長が立てた政教分離の原則には従わず、信仰の自由を制限し、信仰者を弾圧、迫害した。
彼らは、キリスト教とは全く独立した形の国家を形成する道を選んだ。日本の独立を守るためにとった禁教令と鎖国政策は、日本独自の文化文明を発展させる方向へ大きく動かした。
ともあれ、塩野七生氏は、信長の偉業について次のように述べる(脚注6)。
「欧米諸国が現在にいたるまで、この問題(引用者による脚注12)で悩み苦しまされてきた実情を知れば、われわれのもつ幸運の大きさに、日本人がまず驚嘆するであろう」「おたがいに守備範囲を守って生きるぐらい、相手の存在理由の尊重につながるものはない」と。
信長により政教分離の原則が打ち立てられたあと、好むと好まざるとに関わらず、現実の歴史は動いてしまった。そして、鎖国により文明どうしの対決はとりあえず避けられることになった。三〇〇年後に先送りされただけではあったが。
文明どうしの対決が先送りされず、織田信長が相対することになったとしたら?ふと、そんなことを考える。文明の対決にあたって、信長ならどのような舵取りをしたであろう。(了)
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脚注
6)塩野七生「男の肖像」春秋文庫、1992年、文藝春秋。
7)http://ja.wikipedia.org/wiki/バテレン追放令
8)禁教令:http://home.att.ne.jp/wood/aztak/kinkyourei.html
9)http://ja.wikipedia.org/wiki/トルデシリャス条約:スペインとポルトガルは地球上に勝手な子午線を引いて地球をちょうど二つに丸まる分割した。ブラジルからインドネシア・フィリピン・日本の東経135度までの東半球をポルトガルの取り分、南北アメリカ大陸の大部分から日本の東経135度までを含む西半球をスペインの取り分とした。その取り決めを「トルデシリャス条約:1494年」「サラゴサ条約:1529年」と呼ぶ。特に、トルデシリャス条約の締結には、スペイン出身のローマ教皇アレクサンデル6世が深く関与している。キリスト教会が、世界を分割してスペインとポルトガル二国のものとすることを決定したのである。オランダ、フランス、イギリスなどは、事実上世界分割競争から締め出しを食った。フランスは、スペインに次ぐ、ローマカトリック教会の後ろ盾になろうと図り、世界分割競争に参戦しようとした。オランダ、イギリスがプロテスタント側を選んだ理由は、ローマカトリックの支配権から逃れて、世界分割競争に堂々と参加する為である。
10)http://ja.wikipedia.org/wiki/イエズス会
11)http://ja.wikipedia.org/wiki/フランシスコ会
12)政教分離が実現していないこと。
(2927文字)
2009年8月10日月曜日