さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策
What should we do now? Explore the history of Japan and the world.
〜 PEKのひとりごと PEK’s soliloquy 〜
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xiii)ピースメーカー(4) 残酷な平和(Ⅱ)天才織田信長
信長は誰の味方だったか?
信長は、単なる戦国大名の一人ではなかった。流通革命、市場革命の端緒を開いた。「楽市・楽座」(脚注6)を領内に設け、乱立する「関所」を撤廃し、当時としては稀に見る大都会である城下町を作った。
「楽市・楽座」とは何か。モノを売りたい商人や農民が、高いテナント料を支払わずとも、市(いち)に店を自由に出せる制度が「楽市」である。パテント料を払わなくても、価格カルテルに加わらずとも、自由にモノを作ったり売ったりできるシステムを「楽座」と言った。
「関所」の何が問題だったのか。室町幕府から戦国時代は、中央政府が機能していなかった。そのため、少しでも領地を持っている領主は、街道や河川および海に武装兵を配備して、通行料を徴収していた。勝手に、作りたい放題に「関所」を作り、通行税(関銭)を通行人やモノに課した。
当然のことながら、パテント料、テナント料、通行税は商品の価格に上乗せされる。消費者は、物価高に苦しめられていた。
専業の武士団を配下に置いて、彼らと家族を住まわせた城下町がなぜ画期的か?信長以前、定期的に立つ「市」に消費者が集まった。四日市、五日市などの地名で呼ばれる町は、その名残をとどめている。また、寺社がある門前町が圧倒的に有利だった。
信長は、専業の武士団を作った。農業をやらない彼らとその家族を、城の周りに住まわせた。人口が数万人という、京都なみの大消費地を作った。ポルトガルの宣教師フロイスは、信長の城下町岐阜のありさまを「まるでバビロンのような賑わい」と表現した(脚注7)。
大消費地が作られ、四日おきどころでなく、毎日「市」が開かれた。沢山のモノが運び込まれ、沢山売れた。競争も激しくなった。モノの価格を引き下げる効果があった。
信長支配下で、物価が下がり庶民の暮らしは格段に良くなった。治安は安定するし、生活は楽になるし、庶民は、より自由でより豊かな生活を享受するようになった。領民は圧倒的に信長を支持し、その改革についていった。
比叡山延暦寺などは、その過程で信長の前に立ちはだかった抵抗勢力だった(脚注8)。彼ら寺社勢力は、灯明用の油などの工業製品製造許認可権を持っていた。市場(いちば)で商いする人々からショバ代を要求し、価格カルテルを結ばせていた。
商工に携わる人々から、パテント料やテナント料を徴集していたので、寺社は寝ていても儲かった。配下に土倉(どそう、質屋)や酒屋という金融業者を従え、集めた金をさらに有効活用していた。
寺社は、自分たちにとって非常に都合が良いシステムを構築していた。まさに、日本の経済を牛耳っていた。その犠牲になっていたのが一般庶民である。物価高に苦しみ、少し離れたところに行くにも、沢山の関所でそれぞれ通行税を徴収された。
「楽市・楽座」「関所の撤廃」「人工都市の建設」など、信長は革命的な政策を掲げ、次々に実行していった。被害を被ったのは寺社である。彼らにとって、信長は、自分たちの既得権益システムを根底から覆す存在になった。信長は「天敵」「仏敵(ぶってき)」となった。
そもそも、宗教団体は平和勢力だったという日本人の「常識」は、神話に過ぎない。平安時代、鎌倉時代、室町時代、戦国時代を通じて、仏教の諸宗派のうち主なものは、武装勢力に育っていった。
国による治安維持のシステムが消滅してしまったために、平安時代には武士が起こった(脚注8、9)。それと同じように僧侶も武装していた。武装して、自分たちの安全と既得権益は、自分たちで武力を使ってでも守る、というスタンスをとった。
その事実は、武蔵坊弁慶のいでたちで想像できる。有力な宗派は多くの僧兵を抱えていた。往々にして、政治に介入し自分たちの要求を武力で迫った(強訴と呼ばれた)。
良心的な商人や職人が、安くて良いものを庶民に届けようとしても、寺社おかかえの僧兵や武士など武装勢力がやってきて、コテンパンにやっつけられるか殺されるのがオチだった。武力をもって対抗しない限り、寺社の既得権益はとうてい壊せなかった。
寺社勢力は、当時の経済を牛耳る武装集団だった。民の生活を苦しめる元凶だった。その事実を棚に上げ、さも自分たちが平和な集団であり、無辜(むこ)の宗教勢力であったかを宣伝する。信長は、無抵抗の仏教徒たちを皆殺しにした。残酷無比な鬼だ、と非難する。
事実は全く違っている。信長は誰の味方だったか?寺社か一般庶民か?戦国大名の中で、寺社勢力と本気で対決し、彼らに有利なシステムを破壊しようとした者は、信長のほか誰もいない。
宗教戦争の終結
信長は、血で血を洗う宗教戦争から日本を救った。世界に先駆けて、今から四〇〇年も前に「政教分離」を完成した(脚注10)。非常に荒っぽいやり方ではあった。残酷だった。しかし、僧侶の武装解除に道筋をつけ、宗教戦争を終わらせた。
当時、法華宗(日蓮宗)と浄土宗、浄土真宗との間には、宗教戦争とも呼べる激しい対立があった。そもそも、双方の教え自体が相容れないもので、ソリが合わなかった。
浄土宗、浄土真宗側は、悪人正機説に代表されるように、誰でも念仏を唱えるだけで浄土に行けるとした。法華宗は、日本では珍しく排他的な教えを持っていて、他の宗派を否定した。特に、本願寺派を、いいかげんな教えを広める念仏宗、邪教と言って攻撃した。
お互いに武器を持っているため、敵方の本拠地を焼き討ちにしたり(京都山科<やましな>本願寺の焼討ち:一五三二年、脚注11、12)、女はおろか子どもまでも皆殺しにしたりしていた(天文<てんぶん>法華の乱である:一五三六年、脚注13)。
信長は「武器をすてろ」「何かあったらオレが守る」という宗教政策を打ち出した(脚注8)。当時まだ新興宗教だった一向宗(浄土真宗、本願寺)は、比叡山延暦寺に代表されるような既得権益は持っていなかったが、沢山の宗徒がいて寄進をし、宗門を立てるためには命を投げ打った。
彼らは、信長の宗教政策を受け入れず、原理主義に固執した。まず戦いを仕掛けたのは本願寺側だった。信長との間に停戦協定を結んでも、必ず本願寺側が破った。信長は、実の弟を始め沢山の有力な武将を失ったが、最終的に十一年にわたる本願寺派との戦いに勝利した。
本願寺側が原理主義を捨てたとき、信長は「総赦免」「往来自由」と書状に記し、これまでのことをすべて許し、信仰の自由を保証した。信長は、武器をもっていない無辜の仏教徒を弾圧したのではない。武力で自分の考えを貫こうとする原理主義に終止符を打たせた。それだけである。
寺社の完全な武装解除は、家康の時代の寺院諸法度(脚注14)まで待たなくてはならない。しかし、信長がした本願寺との戦いの本質は、「寺社は政治に口を出さない」という政教分離の確立と、「他人を害してでも自分の教えを貫こう」とする原理主義との訣別にあった。(つづく)
脚注
6)http://ja.wikipedia.org/wiki/楽市楽座
7)川崎桃太「フロイスの見た戦国日本」2003年、中央公論新社。
8)井沢元彦「日本史集中講義」祥伝社黄金文庫、2007年、祥伝社。
9)井沢元彦「言霊」1992年、祥伝社ノンブック、祥伝社。
10)塩野七生「男の肖像」春秋文庫、1992年、文藝春秋。
11)http://ja.wikipedia.org/wiki/法華一揆
12)http://ja.wikipedia.org/wiki/山科本願寺
13)http://ja.wikipedia.org/wiki/天文法華の乱
14)http://ja.wikipedia.org/wiki/寺院諸法度
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2009年7月13日月曜日