さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策
What should we do now? Explore the history of Japan and the world.
〜 PEKのひとりごと PEK’s soliloquy 〜
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ⅹ)ピースメーカー(1) 理想と現実(Ⅱ)対立する歴史観
変化しはじめる世論
当初から、平和絶対主義には批判があった。「平和念仏主義」という言葉に代表される。「『平和、平和』と口にして平和憲法を堅持していれば、平和でいられる」とする態度のことである。作家の司馬遼太郎氏はそう表現した。
現在、「護憲」の旗は、国民にどのように映っているだろう。まだまだ、輝きを失っていない。そう考えて、その旗を掲げ続ける人びともいる。他方では、色褪せが目立ち、イデオロギー的(何らかの先入観を含む偏った考え方)であるとして、避けられ始めているかにも見える。
最大のターニングポイントは、湾岸戦争(一九九一年、平成三年、脚注9)だろう。戦争終結時に、クウェート政府は世界の主要紙に感謝広告を出した。
日本は、主にアメリカ合衆国の圧力もあって、多国籍軍に多額の資金協力をした。侵略された小国を助けるために、精一杯の貢献をしたつもりだった。しかし、その広告に日本の名前はなかった。
開戦当時、多国籍軍による空爆が始まっても、五十四日間バグダッドにとどまって報道を続けた米国人がいる。ピーター・アーネットだ(脚注10)。
バグダッドを脱出した彼に、日本のメディアは訊ねた。「日本にもキチンと報道してもらえるのか」と。その時、アーネットは次のように答えた。「我々は命をかけている。しかし、キミたちはただの野次馬だ。」
左右の政治勢力、メディア、一般の我々は、それぞれ一様にショックを受けた。資金提供では国際貢献と見なされない。全く評価されない。それどころか、野次馬扱いまでされる。日本が世界からどう見られているか、その厳しい現実を思い知った。
湾岸戦争と匹敵するほど影響が大きかった事件がある。二〇〇二年<平成十四年>の小泉純一郎首相(当時)による北朝鮮電撃訪問である(脚注11)。
金正日朝鮮労働党総書記は、自国工作員による日本人十三名の拉致を認めた。口頭で謝罪した。これがきっかけとなり、日本人拉致問題は急展開した。二〇〇四年<平成十六年>までに、拉致被害者のうち五名とその子どもたちの帰国が実現した。
一九七〇年代から八〇年代にかけて、不自然な行方不明者が、特に日本海側で続出した。多くの人々の人生が狂わされた。北朝鮮工作員によるこの事件を、国会で最初に取り上げたのは当時民社党委員長の塚本三郎だった(一九八八年、昭和六十三年)。
日本の公安当局は徐々に動き出し、北朝鮮による拉致の疑いが濃厚との見方を強めていった。横田めぐみさんの実名が公表されるに至って、報道も爆発的に増えた。世論も次第に後押しして、真相究明を政府に求めた。
そんな中、違った意見を発表する人々が出てきた(脚注12、13)。「北朝鮮による拉致であるという明確な根拠は存在しない」(脚注12)と。当時、ホームページに、韓国安全企画部や産経新聞のデッチ上げの疑惑があることを載せた政党もあった(脚注14)。
このように、拉致を「捏造」と主張する個人や団体が存在した。その多くが、左寄りの勢力であり、護憲派とされる人々だった。北朝鮮を擁護し、政府や右寄りのグループを攻撃した。彼らは青ざめた。二〇〇二年の小泉電撃訪問で、シロクロがハッキリとついたからだ。衝撃的だった。
対立する歴史観
ある人びとは、考えるようになった。
日本人は、世界の一般常識をあまりにも知らない。「軍事」が、依然として世界の政治を動かしている。その重要性を、我々は全く無視してきたのではないか。世界のどこかで、他国の侵略に苦しんでいる人びとがいる。でも、戦争はいけないと叫ぶだけだった。
「他国の人々は善意のカタマリである」と考え、隣国と誠実に付き合って行こう。こちらに悪いことをするはずがない。そう思って来た。
他国による人権侵害に苦しんでいる人々が世界(日本)のどこかにいる。でも、邪悪なのは日本政府や体制側の連中だ。そういう宣伝、主張が、ある人々によって続けられてきた。彼らを、これからも信じ続けて良いのだろうか?
「平和こそ全て!」と考え、実践してきた。世界中で最も平和に貢献していたつもりだった。自分たちさえ良ければいいなどと考えたつもりはなかった。しかし、世界の国々からは、自己中心的な人びとと見なされるに至った。
どうやら世界の常識から、大きくかけ離れていたらしい。苦しんでいる人々に、あまりにも無関心だったらしい。
平和教育では、「平和は何よりも尊い」「戦争は愚かだ」ということを、子供たちに徹底的に叩き込んだ。そうすることは、「歴史に学ぶ」ことの実践だと思っていた。
しかし、平和教育は逆に、「歴史」に対する誤解を植え付けた。なぜ戦争が起きたのか、全く知らない。なぜ戦争に参加したのか、その辺りの事情を知ろうとしない。やむを得ない事情もあっただろう。しかし、斟酌したり思いやったりすることができなくなった。
世界に腹黒い人々はいない。悪いのは、自国の体制側の人びとだと思って来た。悪いのは、西側諸国の指導者たちだと宣伝されてきた。「戦争を準備しようとする人たち」と非難してきた。
過去に戦争を起こした人びとを「愚か」と考えた。戦争に参加した人びとを「愚か」と考えた。戦争に苦しんだ時代の人びとに、同情を寄せることができなくなった。今も苦しんでいる人びとに、共感できなくなった。共感があったとしても表面的なものにとどまった。
そのため子供たちは、「『昔の人はバカだったのだ、自分はそんなにバカじゃない』と当然と思う。『歴史など振り返る必要はない』ということにもなる。
そういう子供たちは大人たちに『なぜ戦争に反対しなかったのか?』『なぜ徴兵を拒否しなかったのか?』と言う。そんなことは到底不可能だったということが、分かっていないのである」(脚注15)。
ある人びとは、皮肉をこめて次のように言う。戦後日本の教育は、世界の常識を知らず、歴史を知らず、自己中心で、世界観の歪んだ人びとを世に送り出した。これらは、すべて平和教育の成果である、と。
こうした中、右寄りの人びとは、キャンペーンを展開しはじめた(脚注16)。教育を変えていこうと動き始めた。反対勢力の主だった人々を、「反日日本人」「外国に日本を売り渡す進歩的文化人」と非難した。
戦後支配的だった歴史観を、自虐史観、コミンテルン史観、東京裁判史観などと非難し、退けた。そのかわり、司馬史観、自由主義史観を標榜し、世論に訴えかけようした。中には皇国史観を振りかざす人びともいる。
護憲派を含む左寄りのグループはどう対抗したか。彼らは、戦後の歴史観を見直そうという上記の動きを、「歴史修正主義」と呼んだ。非難した(脚注16)。
日本から平和を奪い去りかねない、アブナイ動き。既に決着のついた問題をことさらとりあげて、歴史の真実をねじ曲げている。歴史に学ばない人びと。危険なナショナリスト。戦争を美化し賛美する人びと、と。
新聞、出版社、テレビ局も次第に色分けされ始めた。「朝日、毎日」vs「読売、産経」、「岩波書店」vs「小学館」、「テレビ朝日、TBS」vs「日本テレビ、フジテレビ」。
必ずしも理性的とは言えない非難合戦も、水面下では存在する。自分のメディアでは、反対陣営の動きを一切流さないという、露骨にバイアスをかけた報道姿勢もある。ともあれ、世論を巡っての綱引き、駆け引き、働きかけは既に始まってしまった。
いったい、こうして対立する左右勢力の中に、真のピースメーカーはいるのだろうか?どちらが真のピースメーカーなのだろう?
私たちは、どうすれば良いのだろう?歪みのない歴史観、世界観を身につけてゆくために、何が必要で、何が不要なのだろう?歴史に学ぶとは、いったいどういうことなのだろう?真のピースメーカーとなるために、世界と歴史から学びたい。(了)
(本論「理想と現実」の冒頭に戻る)(マイ・アーカイブズへ)
脚注
9)http://ja.wikipedia.org/wiki/湾岸戦争
10)アーネット、ピーター「戦争特派員 CNN名物記者の自伝」(沼沢治治訳)、1995年、新潮社。
11)http://ja.wikipedia.org/wiki/北朝鮮による日本人拉致問題
12)和田春樹「『日本人拉致疑惑』検証する」世界、2001年、岩波書店。
13)日弁連元会長の土屋公献も、「拉致問題は存在せず、国交交渉を有利に進めたい日本側の詭弁である」「日本政府は謝罪と賠償の要求に応じるどころか、政府間交渉で疑惑に過ぎない行方不明者問題や『ミサイル』問題を持ち出して朝鮮側の正当な主張をかわそうとしている。破廉恥な行動と言わざるを得ない」と、講演で繰り返し述べていた。後に、土屋は「(北朝鮮に)裏切られたという思い、強い憤りを感じる」と言い、被害者家族らに謝罪している。
14)社民党は、公式ホームページに、事件の捏造を断定する趣旨の論文を載せた。「少女拉致疑惑事件は新しく創作された事件というほかない」と。
15)井沢元彦「歴史if物語」2000年、廣済堂出版。
16)自虐史観vs自由主義史観、平和絶対主義vs歴史修正主義:これらについては、別項目を立てて詳しく述べる。
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2009年6月8日月曜日