さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策
What should we do now? Explore the history of Japan and the world.
〜 PEKのひとりごと PEK’s soliloquy 〜
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〜 PEKのひとりごと PEK’s soliloquy 〜
ⅹ)ピースメーカー(1) 理想と現実(Ⅰ)戦後平和絶対主義
今回から、平和を創り出す働きについて考えてみる。我々が辿ってきた歴史を振り返り、日本人がいま抱えている課題と、味わってきた苦悩、そして幸福に注目する。
真のピースメーカーのあるべき姿とは?私たち日本人の考え方の中に歪んでいる部分はないか、考察を加えたい。まず、我々がいま抱えている課題をとりあげる。
ピースメーカーとは?
平和を創り出す働きとは、どのようなものだろう?平和を創り出すとは、どのような人々のことを言うのだろう?人によって答えはまちまちである。意見が大きく分かれるに違いない。ひょっとすると、明確な答えを出しにくい質問かもしれない。
「平和をつくる者は幸いです」と聖書にある(脚注1)。ここでは第一義的に、「宇宙の造物主である唯一の神と、被造物である人との間の平和を創り出し、仲直りを生み出すことの幸い」が語られている。実践の第一歩は、キリストによる神との和解を自ら受け入れることである、と言われる。
聖書にまだ価値を置いていない人びとは、その次が聴きたいに違いない。実際にはどうすれば良いのか?キリスト教が浸透していた地域、国家どうしでも、戦争や争いが絶えなかったではないか?いや、キリスト教と無縁だった日本の方が、平和を保てていたではないか?
人びとの間には敵意がある。民族同士の争いがある。宗教対立がある。通常兵器による戦争が起こる。核戦争の恐怖が存在する。テロリズムでしか抵抗できないと行動にまで移す人びとがいる。テロリズムと断固戦う政府がある。
実際には、どのようにすれば、平和を創り出せるのだろう?いったい、真のピースメーカーとは誰だろう?そのあるべき姿とはどのようなものだろう?
人々は言うだろう。マザー・テレサやガンジーのような人びとこそ真のピースメーカーだ。憲法を護り平和を守れ、戦争絶対反対と叫ぶことだ。国境なき医師団などのNGOや、青年海外協力隊のような働きだ。
かと思うと、次のように考える人も世の中にはいる。PKF(脚注2)のような軍事力を使ってでも、平和維持に介入すべきだ。アフガン戦争やイラク戦争のような先制攻撃まで容認される。
それぞれ自分が支持する立場こそ、真のピースメーカーの働きだと確信しているのかもしれない。
戦後平和絶対主義
護憲という言葉がある(脚注3)。もっとも、護憲と一口で言っても、いろいろである。「左寄りの立場が護憲派で、右寄りが改憲派」とは必ずしも言えない。誤用や混乱もある。少しばかり紹介しよう。
a)極端な人びとは、「憲法改正を主張したり、考えたりすること自体が憲法違反である」と主張する。現行の日本国憲法に憲法改正のための条項があるにもかかわらず、である。
b)「天皇制廃止」を訴える人びともいる(脚注4)。「立憲政治」を行うために、君主制を廃止すべきだと主張している。「天皇制廃止論者でなければ護憲派とはいえない」と言う人も中にいる。
c)「日本国憲法の条文の全てを変更すべきではない」と主張する人びとは多い。「民主制を守る、基本的人権や男女同権を維持する、第9条を維持する」との観点から言っている。
d)「天皇制を守る、共産化を防ぐ」という観点から、「日本国憲法の条文の全てを変更すべきではない」と主張するグループもいる。現行憲法を変えないといっても、c)の立場とは違う。
いわゆる左寄りの護憲派とは、上記a)からc)の立場と言えるだろう。
その中の人びとの多くは言う。現行憲法のおかげで、日本は戦争に巻き込まれずに済んだ。長いあいだ平和が保たれた。理想を高く掲げた平和憲法こそ、世界各国の目標だ。世界情勢がどれほど変化しようと、憲法の条文に変更は加えずに行こう。
一九四五年<昭和二十年>に終わったあの戦争では、国内だけでも数百万人という犠牲者を出した。もう戦争はコリゴリだ。二度と戦争はすまい。そういう国民的コンセンサスがあった。国民は、世界に例を見ない特色を持った現行憲法を受け入れた。陸海空の軍事力を持たないという第九条である。
国際紛争を解決するために、武力は用いないようにしよう。話し合いを含め、武力以外の方法で、戦争のない世界を実現しよう。そのために日本が先頭を切ろう。模範となろう。
徹底した平和教育が実践された。戦争は悲惨だ。非人間的だ。いけない。一部の軍国主義者に苦しめられていた。モノを言えない時代だった。指導者は愚かだった。日本は生まれ変わった。平和こそ絶対だ。
同じ過ちを繰り返さないようにしよう。その頃大事だとされていたモノの中には、戦争につながるものがある。絶対に反対しよう。「戦争の非人間性、残虐性を知らせ、戦争への怒りと憎しみの感情を育てる」(脚注5)ことに焦点をあてよう。平和教育の実践に力を入れよう。
自衛隊とは殺人者集団であるという、次の一文に代表される。
「軍隊とは、殺人と破壊を専門とする集団のことであり、平時から毎日殺人と破壊の方法を研究、学習、練習している集団であること、自衛隊は軍隊以外の何ものでもないこと、ということをきちんと教えてほしいと私は思います」(脚注6)。
大学人も、「二度と戦争はすまい」という同じコンセンサスから出発した。歴史学者も教育学を専攻する人も、同じ気持ちだった。中には、マルクス主義的世界観寄りの考え方から出発する人もいた。いや、そういった考え方をする人びとが、大学の中では主流派だった。声が大きかった。
歴史や教育の専門家から、政治学者、国際関係や国際法の研究者まで、戦争に関する研究には、殆ど手を付けなかった。研究の対象にすべきだと考える人もいたかもしれない。しかし、ほんの一握りの人を除き、いわばタブーだった。
メディアも戦争反対の論陣を張り続けた。平和教育を実践する側を擁護する論調が繰り返された。時には編集長や論説委員が、時には評論家が陰ひなたに立った。ペンと映像の力を駆使して、日本の世論形成を誘導した。
左寄りの政党の一部は、安保闘争(脚注7)の中心勢力となった。西側陣営にいることは戦争への道だという政策を訴えた。非武装中立を唱え、戦争絶対反対を主張し、平和教育を支援した。
政権を担ってきた右寄りの勢力は、国民には内緒で日米安全保障条約(脚注8)を結んだ(一九五一年、昭和二十六年)。占領軍が在日米軍として駐留する国防システムを作った。それでも、「二度と戦争はすまい」というコンセンサスは重んじた。世論を軽く見ることはできなかった。
軍隊は作った。明らかな憲法違反だった。しかし、正式なものではないとして「自衛隊」と呼んだ。コトダマ国家にふさわしく、「言い換え」をした。問題が出てくるたびに、解釈改憲をして凌いできた。
本来使われるべきではなかった原子爆弾が、ヒロシマ、ナガサキに投下された。沢山の人々が死に、多くのヒバクシャが苦しんだ。日本は唯一の被爆国だった。核兵器のない世界を作ろうと、世界にアピールして来た。抑止力としての核兵器も持たなかった。
戦争に敗れたあと、約六十五年の歳月が経過した。日本は、戦争と直接関わりのない時代を過ごしてきた。戦争によって一人も殺さなかった。一人として殺されなかった。武器輸出をしないという原則も守った。
右寄りの政権勢力が作った国防システムにより、平和が守られた。逆に、平和憲法を護持していたから、平和でいられた。その立場たちばで、それぞれの主張がなされた。正しいのは、どちらだろう?現在に至るまで、意見は分かれている。
ともあれ、戦後平和絶対主義には力があった。「護憲」の旗印は輝きを放ち、人々の中で一定の力を持っていた。(つづく)
脚注
1)「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるから」マタイの福音書5章9節、新改訳聖書第3版、2003年、聖書図書刊行会。
2)http://ja.wikipedia.org/wiki/PKF :PKF(United Nations Peacekeeping Force:国連平和維持軍)。PKO(United Nations Peacekeeping Operation:国連平和維持活動)の働きの一環で、紛争解決のために派遣される各国軍部隊のこと。
3)http://ja.wikipedia.org/wiki/護憲
4)天皇制を廃止するために、憲法の改正を主張する立場は、実は改憲派であるが…。
5)山辺芳秀「教研集会からみる日教組の平和教育」教育評論、1993年、教育評論社。
「平和教育とは何か」という章で、平和教育実践について次の三つの目標を掲げている。
一、戦争の持つ非人間性、残虐性を知らせ、戦争への怒りと憎しみの感情を
育てるとともに、平和の尊さと生命の尊厳を理解させる。
二、戦争の原因を追及し、戦争を引き起こす力とその本質を、科学的に認識させる。
三、戦争を防止し、平和を守り築く力と、その展開を明らかにする。
しかし実際は、第一の目標にのみに力が注がれ、第二、第三の目標は殆ど触れられていない。そのように、一部から批判されている。
6)城丸章夫「戦争・安保・道徳 平和教育研究ノート」あゆみ出版。
7)http://ja.wikipedia.org/wiki/安保闘争
8)http://ja.wikipedia.org/wiki/日米安全保障条約
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2009年6月7日日曜日