さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策
What should we do now? Explore the history of Japan and the world.
〜 PEKのひとりごと PEK’s soliloquy 〜
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ⅸ)絶対視されるワ ワのルーツと危険(Ⅳ)和が破滅を招く
軍国主義の真の姿
「話し合い絶対主義」「ワ」「協調性」が、日本の国を破滅に導くこともあった(脚注3、4)。もちろん、六十数年前に負けた例の戦争のことである。
日本は軍国主義で、天皇絶対の国家だった、というのが歴史的常識となっているかもしれない。しかし、日本は軍国主義でも、天皇絶対の国家でもなかった。話し合い中心主義、協調性、ワを過度に重んじるあまり、状況判断能力、意思決定能力が貧弱過ぎたのである。
北岡伸一氏は次のように述べている(脚注8)。
「誤解を恐れずに言えば、日米開戦前の一九三〇年代後半の日本は意思決定能力が貧弱で、軍国主義ですらなかったと思うのです。軍事の基本は、敵を知り己を知る事です。負ける戦争はしないのが軍事のプロです」
「太平洋開戦当時、中国との戦争は既に四年五ヶ月にも及びながら勝てなかった。主要国の中で同盟国だったのはドイツ、中立関係にあったのはソ連で、いずれもあてにならない国でした。そんな状況で、米英の両大国と戦うのは自殺行為でした」
「国際情勢を踏まえた冷徹な現実認識に欠け、また総合的な意思決定の場がなかったということです。例えば、日本の仮想敵国について、陸軍はソ連、海軍はアメリカをそれぞれ挙げ、両者の妥協の結果、両国共に第一仮想敵国にされてしまった」
「開戦直前の日米交渉では、中国からの日本の撤兵が日米衝突回避のための決定的な条件となったが、陸軍は<戦死者に申し訳ない>との理由で撤兵を拒否しました。<今更やめられない>という情緒的な論法は、昨今の行政でもよく耳にします」
「一方、海軍も<予算をもらって軍事拡張してきた手前、戦えないとは言えない>と考えました。国家の運命よりセクションのメンツの方が優先されたのです」と。
戦前の日本は、「国家の運命よりセクションのメンツ」「国益より省益」の方が優先された社会だった。真の軍国主義ならば、中国との戦争を継続しつつ、超大国アメリカと戦争を始めるようなバカな判断はしない、というわけである。
もし、天皇絶対だったならば、ここで戦争は阻止されていたかもしれない(脚注9)。 しかし、当時は天皇絶対だったわけではない。
二・二六事件(一九三六年)を鎮圧するのに自分の意志を働かせた昭和天皇が、当の反乱軍将校たちにどう思われていたかを示す文章がある。
「二・二六事件の生き残りの人達の座談会が『文藝春秋』にのっていたのを読んで、非常に不愉快だった、吐き気を催しましたね」と、阿川弘之氏がその著書の中で紹介している(脚注10)。
「つまり陛下が二・二六事件を失敗に追い込んだということですね」
「私は、いまでも…ああ、この方がわれわれの事件を潰したんだなあ、と思いますよ」と。
部下である将校が、トップの命令に従うどころか、テロを実行し天皇を利用して自分たちの考えを実現しようとした。日本では権力が集中せず、天皇独裁ではなかったというのが歴史的事実である。
日米開戦の直前でも、絶対的権力を持つ指導者がいたならば、そこでストップがかかっていたかもしれない。残念ながら、ストップはかからなかった。
ワの絶対視が危険な時
当時の世論は日米開戦を希望していた。世論は圧倒的に「アメリカ憎し」だった。日米開戦の大本営発表(一九四一年<昭和十六年>十二月八日)を、日本の著明な文学者が何人も「暗雲晴れて」と表現したほどだった。そういった世論の中で(一九四一年十月十八日)首相となったのが東条英機である。
当時、アメリカから「ハル・ノート」という最後通牒を突きつけられていた(脚注11)。それを呑んで中国から手を引くことは、日本の滅亡につながると多くの国民が思っていた。東条英機率いる内閣には、その時「ハル・ノート」の扱いに関する決断が委ねられることになった。
日米開戦を徹底的に避けること、それが日本の生きる道だった。中国から撤退してでも、国を守るという真の国益中心の判断をする以外に道はなかった。
「アメリカ憎し」の世論を抑える必要があった。膠着していた中国戦線から手を引き、中国の内戦(脚注12)には表向き干渉しないというスタンスに、基本方針を大きく変更するべきだった。中国からの撤兵は、決して日本の滅亡にはつながらないことを国民に示す必要があった。
これまでの犠牲者に申し訳ないという情緒的な反論に、いかに対抗するかも大きな課題だった(脚注13)。ともかく、米英に新たな戦争は仕掛けないという冷徹な決断が必要だった。
しかし、東条英機は「戦争をしない」という決断ができなかった。日米決戦を支持する強力な世論、陸軍、海軍など八方に目配りをし、「ワ」をもって話し合いを続けた。その結果、ズルズルと日米開戦が決定してしまった。
「話し合って決めたことは正しい」という伝統的な原理・信仰によって、日米開戦は決定されてしまった。「ワ」の絶対視が、国を滅ぼしたと言ってもよい(脚注3、4)。
「総合的な正しい情報処理と冷徹な世界情勢分析」「大所高所から見た正しい決断」よりも、「話し合いによって到達した結論」の方が重要だったのである。(つづく)
脚注
3)井沢元彦「日本史集中講義」祥伝社黄金文庫、2007年、祥伝社。
4)井沢元彦「逆説のニッポン歴史観」小学館文庫、2005年、小学館。
8)北岡伸一「21世紀への視座」1997年8月15日夕刊、読売新聞。
9)http://ja.wikipedia.org/wiki/昭和天皇:1941年9月6日の御前会議では、対英米戦やむなしの方針が決定された。席上、昭和天皇は慣例を破り発言した。その中で、明治天皇が作った短歌「四方の海 みなはらからと 思ふ世に など波風の 立ちさわぐらん」を吟じ、反対の思いを間接的に表現したと言われる。もっとも、天皇の戦争責任を問うグループや、当時が天皇絶対制だったと主張するグループの意見は違う。上記の短歌を詠み上げて日米開戦に反対したという逸話も、昭和天皇が戦後にGHQを意識した回想録の中で述べているので、後からつけた単なる言い訳に過ぎないと主張する。
10)阿川弘之「国を思うて何が悪い」光文社文庫、光文社。
11)http://ja.wikipedia.org/wiki/ハルノート
12)中国の内戦:当時は、満州族(タタール、韃靼人)による、植民地的な他民族支配(清王朝)が終焉を迎え(辛亥革命:1911年)、漢民族が国民党(アメリカが支援)、共産党(コミンテルンが支援)、地方軍閥、汪兆銘政権(日本が支援)に分かれて戦っていた。そればかりでなく、チベット(英国が支援)やモンゴルも独立を宣言し、満州族は日本の支援で独立国家を成立させていた(欧米諸国の承認は得られていない)。このように、当時のこの地域では、清王朝の領土的遺産を、いったい誰が相続するかという、深刻な内戦を繰り広げている状態にあった。日本は、こうした内戦に直接は首をつっこまず、あるいは内戦の火に油を注がない方が身のためだった。
13)情緒的な反論:日露戦争講和(ポーツマス条約)に反対した頃の日本の新聞の論調は、「平和の値段が安すぎる」というものだった。犠牲者に申し訳ない。講和反対。戦争継続だった。日中戦争に突入していって後戻りできなくなる頃も、戦争不拡大方針という日本政府の方針に反対する陸軍は、声高に主張した。このままでは「英霊に申し訳ない」。さらに、日米開戦かどうかという時も、陸軍省の理由は、「戦死者に申し訳ない」「引くに引けない」だった。
こういった論調は、現在も引き継がれている。左翼グループは、「太平洋戦争戦没者」に申し訳ないので、「戦争」に反対し、護憲運動を展開する。右寄りのグループにも、同じ理由で、すなわち「大東亜戦争の犠牲者」に申し訳ないので、「自虐史観」はもうやめようと主張されている。
平和の値段に関する議論、犠牲を無にできないという情緒的な考えについては、今後、別項目を立てて詳しく扱う。
(3245文字)
2009年6月3日水曜日