さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策
What should we do now? Explore the history of Japan and the world.
〜 PEKのひとりごと PEK’s soliloquy 〜
さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策
What should we do now? Explore the history of Japan and the world.
〜 PEKのひとりごと PEK’s soliloquy 〜
ⅺ)ピースメーカー(2) 貴い犠牲(Ⅳ)テロリストに甘い
五・一五事件首謀者の助命嘆願運動
大正から昭和初期にかけて、内閣総理大臣の多くは、在任中に暗殺されたり、暗殺未遂に遭ったりしている。右翼により、原敬(はらたかし)、濱口雄幸(前出)、若槻禮次郎が狙われた。
本小項目の犬養毅、後述する斎藤實(さいとうみのる)と岡田啓介(おかだけいすけ)は軍部に射殺されたり、射殺されそうになったりした。
この国では不思議なことに、テロ事件の明らかな犯人であっても、寛大な処分で終わることが多い。たとい無期懲役となっても、恩赦で刑期が短縮されて刑務所を出る。元の活動に戻ってテロを支援する。五・一五事件(脚注16)でも、例外ではなかった。
一九三二年<昭和七年>五月十五日、大日本帝国海軍急進派の青年将校たちが首相官邸に押し入り、犬養毅首相(当時)を殺害した。裁判が行なわれている時期、テロ首謀者の助命・減刑を願った運動が展開された。
大正デモクラシー期(脚注17)以降、民本主義思想とイギリス議院内閣制にならって、元老による内閣首班の推薦が行なわれるようになった。実質的に、二大政党による政権交代が実現していた(脚注18)。
「民意は衆議院総選挙を通して反映される。衆議院第一党が与党となり、内閣を組織する。総辞職に及んだ場合は、直近の総選挙に立ち返り、次席政党たる第一野党が政権を担当する」という原理(脚注19)に基づくものである。
当時、知識階級や革新派は、あからさまに軍隊批判と軍縮支持を行なっていた。一般市民も影響され、軍服姿で電車に乗ると罵声を浴びるなど、軍人は肩身の狭い思いをしていたと言われる(脚注20)。
世界恐慌(一九二九年<昭和四年>、脚注6)、ロンドン軍縮会議(一九三〇年<昭和五年>、脚注14)、満州事変(一九三一年<昭和六年>、脚注8)と続く中、社会不安が増大していた。
海軍の一部は、軍縮を進め英米と妥協した立憲民政党の若槻禮次郎主席全権大使に対し、不満を募らせていた。野党立憲政友会は、ロンドン海軍軍縮条約の締結と批准を、「統帥権の干犯」(前出、脚注12)であると非難した。
上述のごとく、一九三一年四月に成立した立憲民政党の若槻禮次郎内閣は、満州事変について不拡大方針を徹底できなかった。軍部や閣僚の離反もあって、閣内不一致で総辞職。一九三二年<昭和七年>二月の総選挙では、立憲民政党は大敗。犬養毅率いる立憲政友会が勝利した。
首相となった犬養も護憲派の重鎮で、軍縮を支持していた。そのため、犬養は海軍急進派青年将校の標的となった。「まあ待て。話せば分かる」という犬養毅に対し、興奮状態の青年将校たちは、「問答要らぬ。撃て。撃て」と叫んで、拳銃で射殺した。
これがきっかけとなり、軍人内閣が立て続けに成立した(脚注21)。日本の政党政治は衰退することになった。このテロ事件は、民主主義を死へと追いやることになったトンデモ事件である。にもかかわらず、大衆は犯人たちの助命嘆願運動を支持した。
犯人である青年将校たちは、東北地方の貧しい農村出身が多かった。彼らは、故郷で苦しい生活に喘いでいる人々や家族を思い、国を憂えていた。天皇陛下を取り巻く、黒い雲のような「君側の奸」(脚注22)を取り除いて何とかしよう、と。
確かに不穏当な考えかもしれないが、汚職や贅沢にまみれた政治屋が罰せられずに、何故彼らだけが罰せられるのか。彼らには、情状酌量の余地がある、と。
結局、裁判では、将校たちへの判決は軽いものとなった。二・二六事件(脚注23)など、その後の軍部主導のクーデターの土壌を生み出してしまった(脚注24)。軍部によるテロ、クーデターを自ら招き寄せた、といって差し支えないのではないか。(つづく)
脚注
12)http://ja.wikipedia.org/wiki/統帥権:「統帥権干犯」問題は、海軍だけでなく帝国陸軍でも口実となる。満州駐留の関東軍は満州事変を主導した。それに対して、政府は不拡大方針を伝えた。この時、関東軍は「統帥権の干犯だ」と主張し、「東京の支配下には入らない」という強硬姿勢を見せることになる。
14)http://ja.wikipedia.org/wiki/ロンドン軍縮会議
16)http://ja.wikipedia.org/wiki/五・一五事件
17)http://ja.wikipedia.org/wiki/大正デモクラシー
18)伊藤博文系の立憲政友会 vs 護憲運動の中心となった憲政会/立憲民政党
19)http://ja.wikipedia.org/wiki/憲政の常道
20)杉森久英・村上兵衛共著「昭和史の化け物、統帥権」、『ノーサイド』1993年1月号、文藝春秋。大正デモクラシー(軍縮)時代の軍人観を紹介する文章が載っている。
「(昭和5年より以前の時代は)実は軍縮時代でした。軍縮時代というのは、一言で言うと軍隊のいらない時代でした。……当時は軍人が軍服のまま電車に乗ってくると、『この穀潰しめが』とか、『税金泥棒めが』などと見られるために、外出時には制服を着ないという時代でした。……
『村上 大正末期というと、軍縮の時代ですね。おそらく、今おっしゃった左翼思想の影響もあって、軍人が非常に馬鹿にされますね。軍人の発言権利がどんどん失われていく。その恨みが、昭和の初年にいっぺんに爆発したような気がします。
杉森 そうなんです。あの頃私は中学生ですが、軍人は人殺し商売で普通の人間のやるもんじゃない、というふうなことを、先生たちがじわじわと我々の頭にしみ込むように、授業の合間なんかでしゃべっているんですね。
たとえば、日本では大きな軍艦を作っているが、あんなものを造る必要はない。あの軍艦一隻あれば、関東地方一円の下水工事が全部できる。あの軍艦一隻のために関八州は蚊のすみかで、あんなものを造らなければ蚊はいなくなる、なんてことを英語の先生が。はあ、そんなものかなと、こちらは子どもだから神妙に聞いていますよね。そんな時代でした。
村上 そこは現在と似ているところがあるような気がするんですよ。軍人は全部悪いんだ、人を殺すから駄目だと。その反動で満州事変が起きた後、いっぺんに状況はひっくり返ります。
杉森 僕は10年も20年も前からそう言っているんです。今は自衛隊をみんなでいじめているけれど、今にひっくり返るぞ、と」
21)齋藤實、岡田啓介:二人とも海軍出身の総理大臣である。しかし、斎藤實(さいとうみのる)は首相に就任したが、ほどなく辞任している。その後に内大臣となって再度入閣し、二・二六事件で射殺される。岡田啓介(おかだけいすけ)は、首相に在任している間に、二・二六事件で襲われた。ただ、こちらは危うく難を免れる。
22)君側の奸:「五・一五事件」の犯人たちは、大川周明(おおかわしゅうめい)ら思想家の考えに影響されたとされる。大川周明は民間人ではあったが、犯人側に武器を供与した橘孝三郎とともに、厳しい処分がくだされた。
23)http://ja.wikipedia.org/wiki/二・二六事件:五・一五事件の後、内閣を引き継いだ齋藤實(みのる)、岡田啓介(けいすけ)らは、海軍軍人出身であった。この二人も、二・二六事件で殺害されることになる。
24)山崎国紀「磯部浅一と二・二六事件」1989年、河出書房新社。二・二六事件の反乱将校たちは、投降後も自分たちの量刑について非常に楽観視していた。しかし結局、クーデター主犯格の磯部浅一は、銃殺に処せられる。
(3121文字)
2009年6月23日火曜日