さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策
What should we do now? Explore the history of Japan and the world.
〜 PEKのひとりごと PEK’s soliloquy 〜
さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策
What should we do now? Explore the history of Japan and the world.
〜 PEKのひとりごと PEK’s soliloquy 〜
ⅺ)ピースメーカー(2) 貴い犠牲(Ⅰ)日露戦争講和反対
前回から、平和を創り出す働きについて取り上げている。戦後語り継がれている常識に、次のようなものがある。「世論は戦争に反対だった」「新聞はもともと一貫して反戦だった」「軍国主義者の弾圧で自由が奪われた」「国民も新聞も、心ならずも戦争に協力したのだ」と。
その常識を検証するために、四つの事例を取り上げる。まず、日露戦争講和反対キャンペーン、次に、陸軍の行動を絶賛したメディア、シビリアンコントロールの破壊、最後に、五・一五事件首謀者の助命嘆願運動である。
今回は、「世論とメディアはピースメーカーであったか」を検証するとともに、日本人が支配されている根本的な行動原理を探りたい。
日露戦争講和反対キャンペーン
一九〇五年<明治三十八年>、アメリカ合衆国のポーツマスにおいて、日露戦争の講和会議が開かれた(脚注1、2)。ロシアとの講和が決まった。ところが、一部を除き、当時の新聞は「戦争継続」を訴えた。司馬遼太郎氏は、次のように書いている。
「大群衆の叫びは、平和の値段が安すぎるというものだった。講和条約を破棄せよ。戦争を継続せよ、と叫んだ。『国民新聞』をのぞく各新聞はこぞってこの気分を煽り立てた」(脚注3)と。
戦争を勝勢に導いたとはいえ、当時の日本には、もはや戦争継続の能力は残っていなかった。日本は、国家予算の約四倍にあたる二十億円もの借金をして戦った。お金はとっくに底をついていた。最善の道は、一刻も早く戦争を終結させることだった。
ところが、新聞は「屈辱講和」だと煽動した。困難な講和交渉を成し遂げた外務大臣小村壽太郎全権大使は、「国賊だ!」と口汚くののしられた。日比谷焼打事件が起こるなど、民衆は暴徒化した(脚注4)。
満州南部の鉄道及び領地の租借権、大韓帝国に対する排他的指導権、樺太南半分などを獲得した。しかし、賠償金は獲得できなかった。民衆も新聞も「平和の値段が安すぎる!」と主張した。
この時、軍部は新聞を弾圧していただろうか?嫌がる民衆を取り締まり、好戦的になるよう仕向けたのだろうか?否。逆に軍部よりも、一般国民の方が好戦的であった。新聞は、好戦的な大衆に迎合した。反戦などとはかけ離れた、とんでもないメディアであったことがうかがえる。
新聞紙法が政府によって制定されたのは、日露戦争終結から四年経った一九〇九年<明治四十二年>である(脚注5)。言いたい放題、大衆に迎合して戦争継続を煽り、政府を攻撃したツケが、思いもよらない形で廻って来た。そう言って構わないのかもしれない。
成立した新聞紙法では、内務大臣による「発行禁止処分」が規定されてしまった。陸軍、海軍、外務大臣による、「軍事外交に関する記事の禁止や制限」も盛り込まれた。
司馬遼太郎氏は感想を述べる。結局、日露戦争講和反対の叫びは、「向こう四十年の魔の季節への出発点」(脚注3)であった、と。(つづく)
脚注
1)http://ja.wikipedia.org/wiki/日露戦争
2)http://ja.wikipedia.org/wiki/ポーツマス条約
3)司馬遼太郎「この国のかたち1」文春文庫、1993年、文藝春秋。
4)http://ja.wikipedia.org/wiki/日比谷焼打事件
5)http://ja.wikipedia.org/wiki/新聞紙法
(1400文字)
2009年6月20日土曜日