さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策
What should we do now? Explore the history of Japan and the world.
〜 PEKのひとりごと PEK’s soliloquy 〜
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ⅸ)絶対視されるワ ワのルーツと危険(Ⅰ)和のルーツ
「話し合いが大好き」という、日本人の一大特徴を取り扱っている。前回、その特徴が良い方向に作用した例を歴史上から見てみた。
今回はまず、「話し合い」「ワ」の精神のルーツを探る。その後、日本を危険へと導いてしまった例を挙げる。現代の我々が持っている価値観、世界観などの歪みを見つめ、どうすれば良いのか考察したい。
五箇条の御誓文
「話し合い」「ワ」の精神が、いつどのようにして日本人の心に刷り込まれていったのだろうか?その精神が盛り込まれている歴史的文章を、最初に取り上げてみることにしよう。
明治元年(一八六八年)、薩長土肥連合による明治新政府は、明治天皇が公家や諸候に示すという形で、基本方針を発表した。日本語で国内向けに発表されただけでなく、外国語にも訳されて海外にも公表された「五箇条の御誓文」である(脚注1)。
広く会議を興(おこ)し万機(ばんき)公論(こうろん)に決すべし
上下心を一にしてさかんに経綸(けいりん)を行なうべし
官武一途庶民に至るまで、おのおのその志を遂げ、
人心をして倦(う)まざらしめんことを要す
旧来の陋習(ろうしゅう)を破り天地の公道に基づくべし
智識を世界に求め大いに皇基(こうき)を振起(しんき)すべし
「広く会議を興し万機公論に決すべし(=盛んに会議を起こして、すべてを話し合いによって決めていくべきである)」、「五箇条」の第一番目である。この項目が公約の形となって、自由民権運動、憲法制定、帝国議会の開設につながってゆく。
西郷隆盛、大久保利通と並んで、維新の三傑と言われる木戸孝允(桂小五郎)は、岩倉使節団に随行しワシントンに滞在している間の明治五年、一時忘れられかけていた「御誓文」を再発見する。
「かの御誓文は昨夜反復熟読したが、実によくできておる。この御主意は決して改変してはならぬ。自分の目の黒い間は死を賭しても支持する」と語り、帰国後、立憲政治の出発点として正式に位置づけた(立憲政体の詔書:明治八年、一八七五年)と言われている。
現行の日本国憲法を審議する国会(一九四六年、昭和二十一年)においても、当時の吉田茂首相は次のように説明した。
「日本の憲法は御承知のごとく五箇条の御誓文から出発したものと云ってもよいのでありますが、いわゆる五箇条の御誓文なるものは、日本の歴史、日本の国情をただ文字に現わしただけの話でありまして、御誓文の精神、それが日本国の国体であります。日本国そのものであったのであります。
この御誓文を見ましても、日本国は民主主義であり、デモクラシーそのものであり、あえて君権政治とか、あるいは圧制政治の国体でなかったことは明瞭であります」
もっとも、吉田茂を認めない人びとは、独りよがりの体制側の主張と一刀両断するかもしれない。
十七条の憲法
話はさかのぼって、聖徳太子がまとめたといわれる「十七条の憲法」(脚注2)も、話し合い中心主義を訴えている。「和をもって尊しとなす」として有名な冒頭の第一条の全文は、現代語訳で次のようになる。
「おたがいの心が和(やわ)らいで協力することが貴(とうと)いのであって、むやみに反抗することのないようにせよ。それが根本的態度でなければならぬ。ところが人にはそれぞれ党派心があり、大局を見通している者は少ない。
だから主君や父に従わず、あるいは近隣の人びとと争いを起こすようになる。しかしながら、人びとが上も下も和(やわ)らぎ睦(むつ)まじく話し合いができるならば、ことがらはおのずから道理にかない、何ごとも成し遂げられないことはない」(中村元著「聖徳太子」東京書籍)
「お互いの協調性を保つ」ことが最も大切で、「協調性をもって話し合うならば、正しい結論が見つかり、何でも成し遂げることができる」と言っている。話し合い至上主義である。
聖徳太子は、推古天皇の摂政として国政をあずかっていた。当時、仏教はまだ外来宗教の色合いが濃かった。その仏教の信奉者として、聖徳太子は有名である。天皇中心の政治を推進するべしと、仏教信奉者の立場で書いた部分が、十七条の憲法の第二条と第三条にある。
「篤く仏教を信奉しなさい」
「王(天皇)の命令をうけたならば、かならず謹んでそれにしたがいなさい」
だが、最後の第十七条では、もう一度「話し合い」の大切さを謳う。
「ものごとはひとりで判断してはいけない。かならずみんなで論議して判断しなさい。ささいなことは、かならずしもみんなで論議しなくてもよい。ただ重大な事柄を論議するときは、判断をあやまることもあるかもしれない。そのときみんなで検討すれば、道理にかなう結論がえられよう」
聖徳太子は、個人的な考えとして、第二条と第三条を主張したかった。「仏教を信奉し、天皇の命令に従いなさい」と。しかし、その主張を第一条と第十七条でサンドイッチのように挟んでいる。
「協調性をもって話し合い、正しい結論を見つけなさい。何ごとでもうまくいきます」というパンで挟んだ。このパンの部分は、聖徳太子が考えたものではない。むしろ、当時から日本人全体を支配していた基本的な考え方、共通原理、信仰のようなものであった。
話し合いを重んじ、話し合いさえすればものごとは全てうまくいくという考えを、山本七平氏は「話し合い絶対主義」と名付けた。
「話し合い絶対主義」「話し合い至上主義」は、日本史全体を支配している日本人特有の原理と言ってもよい。井沢元彦氏は、「十七条の憲法」は、初めてそれを文章の形で示したものだとしている(脚注3、4)。
國譲りの神話
この原理は、いつどのようにして成立していったのであろうか?
現存する信頼できる資料は「十七条の憲法」が最古のものと言える。話はもっとさかのぼって、十七条の憲法より二〇〇~三〇〇年も古く書かれた書物に載っている神話にも、「話し合い絶対主義」の原型があると考えている人がいる(脚注3、4)。
天皇家の祖先である天照大神(あまてらすおおみかみ)の言葉で、「天壌無窮(てんじょうむきゅう)の神勅(しんちょく)」というものが日本書紀にのっている。この言葉を発する文脈の中に、有名な「國譲り」の場面というものがある。
要点だけを書くと次のようになる。天皇が支配する以前、日本には別の王がいた。中でも出雲(いずも)の大国主(おおくにぬし)が、先住民族の王として日本を支配していた。
そこに後から、高天原(たかまがはら、九州地方?、畿内地方?、朝鮮半島?と諸説あり)というところに住んでいた別の王がやってきて、その土地を譲るように言った。
普通なら戦争になるところを、「話し合い」によって決めた結果、大国主が天照大神の子孫に国を譲ることにした。話し合いによって決めたことだから絶対にうまく行く。
「この日本国は、わが子孫である天皇家が治めるべき国であって、その真理は永久不変で変わらない。天地がずっと続く(天壌無窮)ように変わらない」と、天照大神が自信満々に宣言する。
この神話は、そのまま真実であったわけではない。恐らく、大国主の出雲(先住民族)と天照大神の大和(やまと:新来の民族)の間に戦争があり、その結果、大和が勝ち出雲は無条件降伏した。大国主は捕らえられた。そのあと、先住民族と征服民族は何らかの形で共存した。
「國譲り」の場面では、実際は戦争に勝って国を奪ったのに、それを美化・正当化して、話し合いで譲ってもらったという形にした。昔から、日本では話し合いによる権力移譲・禅譲を「正しく美しい」こととして考えていた。
話し合い絶対主義は、神話の時代から日本に存在した。その後も日本人特有の原理として、脈々と受け継がれてきたというわけである。(つづく)
脚注
1)http://ja.wikipedia.org/wiki/五箇条の御誓文
2)最近では聖徳太子の存在を否定する学説もあるという。
3)井沢元彦「日本史集中講義」祥伝社黄金文庫、2007年、祥伝社。
4)井沢元彦「逆説のニッポン歴史観」小学館文庫、2005年、小学館。
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2009年5月31日日曜日