さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策
What should we do now? Explore the history of Japan and the world.
〜 PEKのひとりごと PEK’s soliloquy 〜
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ⅷ)絶対視されるワ 日本の草の根民主主義(Ⅳ)朝幕併存の謎
日本人が好む政治体制
日本人が好んで作る政治体制は、独裁制・専制政治ではなく、トップによる合議制である。
例えば、江戸幕府を開いた徳川家康は明らかに独裁者であった。二代将軍徳川秀忠は、家康から将軍職を譲り受けた後でも、父である家康の意向には絶対に逆らえなかった。
しかし、家康が作った体制は、独裁制とはほど遠い合議制である。老中が五人いて、その合議によって決めたことを、将軍は裁可するだけだった。
それ以降のどの将軍も、老中の話し合いで決まったことにハンコを押す役割を果たした。老中の合議には何人も(たとえ将軍であっても)口を挟めないという場合もあった。
中には柳沢吉保や田沼意次といった側用人(そばようにん:将軍と老中の間を取り持つ役割の者)をうまく利用して、老中から廻ってきた決定を自分の意向が通るまで何度でも差し戻し、老中をコントロールした将軍もいた(第五代徳川綱吉<つなよし>、第十代徳川家治<いえはる>など)。しかし基本的には、合議(話し合い)が重んじられた。
日本の独裁的な指導者としてまず思い浮かぶ織田信長ですら、話し合い主義をそれなりに尊重した(脚注17)。
実際の評定(ひょうじょう:政策・方針決定の会議)で、信長はまず家臣たち夫々に自分の考えを言わせている。一通り家臣全部に意見を言わせる(意見の開陳)。その後で、信長は家臣の一人を指し「お前の意見を採用する」と言う。
あらかじめ自分が考えていた結論と同じことを言った家臣がいれば、その家臣の意見に決める。たいていそういう方式をとった。そのため家臣たちは、話し合いによって自ら決めたというイメージを共有することができた。
独裁的と言われている織田信長も、話し合いの仕組みを重んじた。この意思決定の仕組みを最大限に活用したのが、木下藤吉郎(のちの羽柴秀吉、豊臣秀吉)であった。信長の考えていることを推量し、良いタイミングで披露する能力に長けていたのである。
明治憲法下では、天皇が絶対権力を振るっていたかに思われている。しかし、その意思決定システムは、江戸幕府と基本的に同じである。
内閣が話し合いによって決めて奏上してきたことを、天皇が裁可した。差し戻すことはしなかった。例外はたったの二回。二・二六事件の「反乱軍の鎮圧」と、終戦間際の「この戦争はもうやめよう」と決断した時だけである。
現憲法下においても、内閣総理大臣に権力が集中するようにはなっていない。極端なことを言うと、総理大臣の仕事は内閣を招集し、話し合いの音頭をとることだけである。
最近はちょっと変わって非常事態時の権限集中などがなされてきたとはいえ、内閣みんなの話し合いで物事を決めて政治を行うというシステムが続いている。
血で血を洗う権力闘争が当然の世界
一般に諸外国では、権力は一元化される。例えば、おとなり中国の秦、漢、晋、随、唐、宋、元、明、清と続く主な歴代王朝交代劇では、前の王朝は後の王朝に文字通り滅亡させられる。
特に、前王朝の皇帝一族は、後の王朝によって皆殺しにされるのが普通だった。皇帝一族ばかりでなく、征服戦争で沢山の兵士が死に、莫大な数の民間人も犠牲となった。その数たるや、日本とは比較にならないほど多い(脚注18)。
同じ王朝の中でも、権力闘争が繰り広げられ、反対勢力の残酷な粛正が繰り返された。秦の頃は、父、子、孫の三族を滅ぼす誅殺(族誅)だったが、後にバージョンアップして七族、九族の誅殺という残酷さへエスカレートしていった。
中華思想における周辺朝貢諸国でも、状況は同じだった。その一つ、歴代朝鮮王朝も例外ではない。
ヨーロッパの各国でも、王朝交代時に王が殺されることは普通であった。フランス革命(一七八九年)や、イギリスの清教徒革命(一六四一~一六四九年)などの市民革命でもそうである。逆に犠牲者を出さない国王追放劇を無血革命・名誉革命(一六八八年)と呼んだくらいだ。
日本の権力闘争の特徴
ひるがえって日本では、中国の律令制度を取り入れたものの、中国歴代王朝に特徴的ともいえる権力の一元集中が見られない。天皇を頂点とする朝廷と武家政権である幕府が並立共存し、権力が分散した状態が七〇〇年も続く(朝幕併存時代、脚注17)。
朝廷から幕府に政治の実権が移った時(脚注19)、天皇一族が抹殺されることはなかった。
足利尊氏が室町幕府を開いた時も、反対派の後醍醐天皇を滅ぼしたりしなかった。とどめを刺すことなどしなかった。それどころか、島流しにすらしなかった。そのため、南北朝時代という抗争が続いたほどである。
薩長連合軍によって江戸幕府が滅びた時でも、十五代将軍徳川慶喜が処刑されることはなかった(無血開城)。
政権交代における戦争においても、武士・兵士の犠牲者の数は、中国における犠牲者よりも圧倒的に少なかった。人口比を考慮したとしても、比べ物にならないくらい少数だった。
権力闘争の中でも、反対勢力の責任者一人または複数人が切腹という形で責任を取らされることはあっても、族誅などという連座制とは全く無縁だった。
日本では、およそ専制政治と呼ぶにふさわしい権力体制は根付かなかった。独裁的な指導者は嫌われた。残酷な殺し合いは、ほぼ皆無だった。前の者から権力を力ずくで簒奪するというより、後の者に権力を禅譲する形式をとった。こんな国は世界を見渡しても珍しい。
「複数トップの合議制で決まったことを、象徴的な最高権力者が裁可する」という権力構造が日本の伝統である。
現代にもその伝統が生きている。鎌倉時代の約一五〇年、江戸時代の約二六〇年、第二次世界大戦以後の六十数年と平和が保たれているのも、日本の権力構造の伝統と無縁ではあるまい。
ワの精神
何故か?それは日本人が話し合いを好むからである。話し合いを重んじ、話し合いに無上の価値を置いているからである。
コトダマ(脚注20、21)とケガレ(脚注22、23)というキーワードも大きく関係する。しかし、物事を分かり易くする目的から、「話し合い」「ワ」だけに焦点を当てる。
次回はこの続編である。まず「話し合い」「ワ」の精神のルーツを探る。そして、その精神が、歴史上どれほど日本を困難に陥れてしまったか、その例を挙げる。その上で、現代の我々が持っている価値観、世界観の歪みを見つめ、今後はどのようにすべきかを考察する。(了)
(本論「日本の草の根民主主義」の冒頭に戻る)(マイ・アーカイブズへ)
脚注
17)井沢元彦「日本史集中講義」祥伝社黄金文庫、2007年、祥伝社。
18)石 平「中国大虐殺史―なぜ中国人は人殺しが好きなのか」2007年、ビジネス社。
19)一一九二年、鎌倉幕府の成立:ただし、これは源頼朝が征夷大将軍に正式に任官された年にすぎず、鎌倉幕府の統治機構の成立は、現在の理解では、それよりもっと前だったとされる。
20)井沢元彦「言霊」1992年、祥伝社ノンブック、祥伝社。
21)http://web.me.com/pekpekpek/さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策/Blog/エントリー/2009/2/28_ⅵ)リアリストになりきれない日本人.html
22)井沢元彦「穢れと茶碗」1994年、祥伝社ノンブック、祥伝社。
23)http://web.me.com/pekpekpek/さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策/Blog/エントリー/2009/3/22_ⅶ)_ケガレと差別.html
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2009年5月27日水曜日