さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策
What should we do now? Explore the history of Japan and the world.
〜 PEKのひとりごと PEK’s soliloquy 〜
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ⅷ)絶対視されるワ 日本の草の根民主主義(Ⅰ)奴婢農奴の世界
今回と次回は、「話し合いが大好き」という、日本人の一大特徴がテーマである。その特徴が良い方向に作用した例と、日本を危険へと導いてしまった例を、歴史上からそれぞれ挙げてみる。その上で、現代の我々が持っている世界観の歪みについて考察したい。
日本の民主主義はいつ頃から?
日本の民主主義は、一九四五年<昭和二十年>に日本が戦争に負けた後はじめて、アメリカ合衆国を中心とする連合国によって導入された。それまでは存在すらしていなかった。存在したとしても十二歳程度のレベルだった(脚注1)。
こうした神話を、ある人たちはまともに信じている。もっとも、民主主義をどう定義するかによって、それが神話だったか真実だったかが決まる。
二大政党による米英などの議会制政治以外を、民主主義と認めないという人もいるだろう。その人たちにとっては、日本は未だに民主主義が定着していない。
しかし、「民主主義または民主政(democracy)」とは、「諸個人の意思の集合をもって物事を決める意思決定の原則」(脚注2)である。
この定義から、民主主義を「話し合いを通して物事を決めること」と言いかえることができるかもしれない。そうなら、民主主義らしきものは、昔の日本にもレッキとして存在した(脚注2)。
いつ頃からか?その話を始めるにあたり、政治体制としての民主制ではなく、まず草の根民主主義に焦点を当ててみたい。注目するのは、産業革命前の時代における各国の農民の姿である。
我々が抱きがちなのは、日本でも他の国でも、「昔の農民は苦しめられていた」という固定観念である。あるいは、海の向こうの国々では人々は幸せに暮らしており、日本国内の人々は悲惨な状況に置かれていたというタイプの固定概念もある。
実際のところ、日本と欧米、アジアの国々の農民の状況はどのようなものだっただろう。簡単な比較をしていこう。
産業革命前のヨーロッパ農民
貴族の主人や大地主から搾取され、殴打され、もっと収穫をあげろといつも鞭で叩かれる「農奴」。貧しく、反抗的で、つねに暴動を企んでいる、顔に深いしわが刻まれた人たち。これが、産業革命前のヨーロッパにおける農民の姿(イメージ)である(脚注3)。
涙を流しながらパンを食べ、やっと一年に一度新しいズボンを手に入れる人々。五年に一度、一足の靴を手に入れることのできる人たち。生涯一度も風呂に入ることがない。自立することなど考えたこともなく、読むことも書くこともできない人々。
フランダースの犬の原作や、映画「グリム兄弟」などを見れば、ほんの少しは想像できるかもしれない。
農民は、人々の食料生産をひとえに担っていたにもかかわらず、領主の横暴の最大の犠牲者だった。身を守る力も術もなかった。それゆえ、彼らは搾取されつくした。人数的には最大の集団だったが、社会の最も弱い構成員だった。
中国、朝鮮半島の農民
中国社会も、我々が想像するような牧歌的な状況ではなかった。地主、士紳(地方有力者)、軍閥、匪賊が、農村、都市、山林湖沢をそれぞれに支配し、棲み分けが行なわれていた社会である。
そこに襲ってきたのが、戦乱、飢餓、流民、そして略奪と避難であった。そればかりでなく、農民は地主や地方官吏(かんり)の税金、詐欺、ワイロ、横領により絶えず搾取され続け、貧しかった(脚注4)。
英国の使節マッカートニーが、熱河(ねっか)で清の皇帝である乾隆帝(けんりゅうてい)に謁見し、通商要求が断られた後、使節団一行は陸路北京から広州に至るまでを走破し、海路帰国した。彼が記した「奉史記」には次のように語られている。
十八世紀末の清国は、乾隆帝が「わが天朝にはないものはない。欲しければ恵んでやる」と豪語したほどの国家ではなく、沿道は乞食と匪族だらけの国であった、と(脚注4)。考古学者シュリーマンも、十九世紀の清国について、同様の既述を残している(脚注5)。
朝鮮半島でも中国と同様だった。十九世紀終わりごろの極東を旅した英国の女性冒険家イザベラ・バードによれば、当時の漢城(はんじょう:今のソウル)は不潔で悪臭に満ちた街だった。
狭い通りには人があふれ、家々から出る汚物を受ける穴と溝が通りをいっそう狭くし、蓋がないため街中を悪臭で一杯にしていた(脚注6)。
ましてや、漢城以外の地方の惨状は、推して知るべしである。農民は両班(やんばん)、地主、地方官吏によって何重にも課税され、その上詐欺、横領、ワイロなど様々な手段により、搾り取れるだけ搾り取られた。
例えば、兵役を免れるために「軍布」というお金を納める仕組みがあった。逃亡した者が出た時には、滞納分をその子孫、親族、隣人に弁償させた。新生児は、生後三日目に軍籍に編入させられ、その分の「軍布」の支払いが強制された。
それらを地方官吏は自分の懐に入れ、何年か私腹を肥やすだけ肥やす。そのあと次の任地に向かうのだった(脚注4)。
苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)に悩まされた中国や朝鮮半島の農民の姿は、ヨーロッパの農民の姿に共通している。貧しく、入浴することもままならず、読み書きを習うこともできず、一揆や暴動などによって時折反抗するだけの、社会的に虐げられた弱い存在である。(つづく)
脚注
1)http://ja.wikipedia.org/wiki/ダグラス・マッカーサー:日本を占領した連合国最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の総司令官、ダグラス・マッカーサーの言葉として有名。もっともこの言葉は、壮年になっていたはずのドイツが確信犯的に戦争犯罪を行なったのに対し、「日本は誤って間違いを犯しただけである。日本はドイツと違う。日本には可能性がある」という、日本を擁護する文脈で語られた。
しかし、十二歳という部分がことさらに採り上げて報道され、多くの日本人の反発を招くとともに、偏見に満ちた発言として定着したという経緯がある。逆に、この言葉を自虐的に使い、日本人がいかに遅れているか、民主的な考え方をするのが下手か、政治体制が欧米に比べて立ち後れているかを指摘し、自分たちの主張に利用する人々もいる。
2)http://ja.wikipedia.org/wiki/民主主義:議会制民主主義国家であるかどうかの現代的な基準は、次に挙げる通りだ。(a)集会・結社・言論の自由を保証しているかどうか、(b)常に民意を問う選挙を実施しているかどうか。その二つである(ポリアーキー:多数支配)。厳密に言うなら、現代の民主制と本稿で扱う「話し合い絶対主義」は違う。しかし、多くの制限があったとはいえ、江戸時代の「草の根民主主義」などには、現代の民主制の萌芽が見て取れる。
3)松原久子「驕れる白人と闘うための日本近代史」(田中敏訳)、2005年、文藝春秋。
4)黄文雄「捏造された近現代史」2002年、徳間書店。
5)シュリーマン、H「シュリーマン旅行記:清国・日本」(石井和子訳)、講談社学術文庫、1998年、講談社。
6)バード、イザベラ、L「朝鮮紀行」(時岡敬子訳)、講談社学術文庫、1998年、講談社。ただ、バードは、一年付き合ったあと、ソウルを評価するに至ったと書いている。「周囲の美しさに恵まれた、世界有数の首都に値する」と。
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2009年5月24日日曜日