さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策
What should we do now? Explore the history of Japan and the world.
〜 PEKのひとりごと PEK’s soliloquy 〜
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ⅶ)ケガレ、死、差別(Ⅲ) 平安時代の穢れ
平安時代におけるケガレの避け方
五~六世紀ごろ日本は朝鮮半島の「任那」に拠点を持ち、「加羅(伽耶)」という地域(豪族群)にも影響力を有していたという。六~七世紀、朝鮮半島は高句麗、百済、新羅の三国鼎立時代だった。唐と組んだ新羅は百済を滅亡させた(六六〇年)。
百済の遺臣たちは日本に援軍を要請し、それに答えた日本は新羅と唐の連合軍と白村江で戦った。しかし日本と百済の連合軍は敗北する(六六三年)。高句麗も新羅と唐の連合軍により滅ぼされた(六六八年)。
唐を敵に回した日本は唐から攻撃される危険に曝され、大和朝廷は九州をはじめ各地に城を築いて国防努力を行なった。実際には、新羅が強くなり唐が侵攻してくる危険性は消滅し、それ以降は国防を考慮しなくて済むようになった。
そのあと朝廷は京に都を遷した。そこを平安京と名付け、それ以降平和が訪れるように願った(コトアゲした)。名付けただけでなく、平安遷都に先立つ七九二年に、桓武天皇は正規軍を廃棄し「健児(こんでい)」という自治警察制度のようなものに変更した。
やがて「健児」は、ふだん農業に従事しいざという時に兵隊となる「屯田兵」となって現地に溶け込んでいった。もっと時代が下ると、「健児」は中央政府の手を離れ、完全に土着化してしまう。
兵部省は形だけになった。経済的な理由もあったかもしれない。しかし「死」に関係する穢れた仕事から貴族が手を引いた。これが実体である。
桓武天皇はなぜ正規軍を廃したのか。「つまり戦争というものは、死というものに触れるわけです。殺すばかりではなく、殺されることもあります。つまり、日常的に死や血や、そういった穢れに触れる行為であるわけです」と井沢氏は説明している(脚注4)。
平安貴族にとっては、正規軍が属する兵部省は人殺し集団を統括する部門だった。ケガレに触れる部署だった。
それゆえ、神聖な朝廷の中に、人殺しで穢れた軍事部門が公式に存在することが許せなかった。ましてや、自分がその長官になろうという考えも毛頭ない。従って、人殺し部門は廃止する。少なくとも、律令機構の中にはないことにする、となった。
平和主義を実践しようとした平安貴族の願いは、はたして実現したか?実際には「平和」が訪れたのではなく、治安が乱れに乱れた。必要に迫られて武士が起こった。武士によって、治安が維持されるようになった。平安貴族も、武士の助けによって権力闘争をするようになった(脚注4、11、12、13)。
国防という点では、朝廷に恭順を示さない北の野蛮人、蝦夷に対する「征夷大将軍」は残した。しかし正規軍はもうなくなった。
どうしたかというと、少数の供のものを連れて都を出発した征夷大将軍は、途中で「健児」を兵として徴募し、にわか仕立ての軍勢で東北地方に向かって奥州の敵対勢力に立ち向かった。
「健児」が土着化して機能しなくなると、代わりに台頭して来た武士を、征夷大将軍の名の下に集めて国防に当たった。ここで集められたのは、坂東の地、関八州、今の関東地方の武士たちである。
白河の関以北の奥州は、鎌倉時代初期に藤原氏が滅ぼされるまで、完全には朝廷の版図には組み入れられてなかった。坂東は蝦夷対策の最前線だった。そこの武士たち、東国武士は、征夷大将軍の元で数々の遠征を行ない、実践によって鍛えられていった。もちろん朝廷の正規軍ではない。
正規軍を廃しただけでなく、犯罪を取り締まる警察組織や、犯罪人を裁く法務組織である刑部省も縮小していった。平安貴族は、自分の手を汚してケガレを身に招くような仕事をしたがらなかった。
律令制度の枠の外に(令外の官として)検非違使が置かれた。検非違使は、都と都周辺の治安維持にあたったほか、清掃業務、非人の管理など、当時の平安貴族がケガレと思うほとんどのことを司ったという(脚注4、14)。
今の警視庁や自衛隊にあたる検非違使が清掃、掃除も担当していたというのは、ちょっと奇妙に聞こえる。軍事、警察と掃除の共通点は何か?これは日本だからこそ見られるケガレという共通点である。
「この二つは、穢れというものを清める仕事という点で共通しています。つまり戦争という、あってはならない、起こってはいけないものである穢れを、自らも穢れながら、たとえば血を流し、相手を殺し、ときには自分たちも殺されながら清めていくのがいわゆる軍人、侍であり、
また一方で汚れているごみを拾い、あるいは血で汚れた棺を焼いたり、葬式に使ったものを捨てるというのも、実はこれも穢れを清めるという作業です。これが日本史の構造です」(脚注4)。
特筆すべきこととして、平安時代の長期にわたって、「死刑」というものは執行されなかった。祟り(怨霊)が怖かったということもあるが、「死=ケガレ」を避けていた具体的な例だと考えられる。
一般に、世界中のどの国でも、王や皇帝への反逆罪は死刑が当たり前だった。東アジアの国では、重要な建物への放火なども、死刑の判決が下って当然だった。
しかし、日本では、天皇への反逆罪として告発され有罪となった場合でも、犯人は流刑止まりだった(脚注15)。都の正式な門を、私利私欲のために放火した犯罪人とされ、有罪となった場合でも、その人は流罪にとどまっている(脚注16)。
井沢氏は次のように述べている(脚注4)。
「これは日本史の一大特徴で、おそらく世界にも類のないことだと思うのですが、平安政府というのは、原則として死刑を執行しなかったのです。これは歴史学者なら誰でも知っている事実です。
日本では、平安時代以降、約三〇〇年間というもの、死刑の執行例は一例もありませんでした。ただ、平安時代末期、保元の乱(一一五六年)、平治の乱(一一五九年)といったような内乱状態において、一種の軍事裁判的なことが行なわれて死刑が復活したという例はあります。
しかし、そのとき、平安時代になってからずっと死刑の執行例がなかったのに、と当時の驚き悲しんだという記録がありますから、逆にそれまで死刑がなかったということは事実なのです」と。(つづく)
脚注
4)井沢元彦「穢れと茶碗」1994年、祥伝社ノンブック、祥伝社。
11)http://web.me.com/pekpekpek/さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策/Blog/エントリー/2009/2/28_ⅵ)リアリストになりきれない日本人.html
12)http://ja.wikipedia.org/wiki/保元の乱
13)http://ja.wikipedia.org/wiki/平治の乱
14)検非違使:平安時代末期、源義経は平家を滅ぼす過程(一の谷の合戦の後)で、当時の後白河法皇からこの検非違使の少尉(判官)に任じられた。それまで、ケガレた武士の出である平家一門が、もともと貴族だけに許されていた政(まつりごと)の要職を独占していた。平家の横暴を苦々しく思っていた後白河法皇とその取り巻きは、平家を都から追い出した功労者である義経を検非違使の役人に取り立てた。
15)http://ja.wikipedia.org/wiki/菅原道真
16)http://ja.wikipedia.org/wiki/伴善男
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2009年3月24日火曜日