さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策
What should we do now? Explore the history of Japan and the world.
〜 PEKのひとりごと PEK’s soliloquy 〜
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ⅶ)ケガレ、死、差別(Ⅱ) 死は最大の穢れ
ケガレの落とし方
外面的な汚れを落とすには石鹸などで洗うことで充分可能だ。しかし、内面的、主観的な不潔感であるケガレとなると、石鹸などでは絶対に落ちない。どうやったらケガレのない状態にすることが出来るというのだろう。
古代の日本人が考え出した方法は、禊ぎ(みそぎ)と祓い(はらい)である。祓いとは神道の神主さんが榊の枝やそれに似た道具でやってくれるあの「おはらい」だ。禊ぎとは「身に罪または穢れのある時や重大な神事などに従う前に、川や海で身を洗い清めること」だという(脚注10)。
ケガレとは一種の宗教的な対象物であって実際に存在するものではない。したがって宗教的な方法でしか落とすことができない。
現代の日本人は祓いや禊ぎを頻繁にやるかというと、それほどしないだろう。いや全くしない人が多いだろう。しかし「水に流す」という言葉をキーワードにすると、われわれの日常に深く浸透していることがわかるという。ケガレとは何かについてもよりよく理解できるという。
ここで、なぜ日本人は何でも水に流したがるのか、「水に流す」ことがなぜ最大の美徳の一つと考えられるのかという話に戻ってみる。
冒頭の「非常にひどい仕打ちを受けた相手に『あなたへの恨みは忘れました。すべて水に流します』と言うなら、日本では『大した人だ』と評価される。立派な人物として尊敬される」という話である。
なぜ『恨みを忘れること』を『水に流す』と言うか。それを井沢氏は次のように説明する(脚注4)。「恨みというものも穢れの一つなのです。ですから、そういう恨みを忘れること、つまりその恨みという穢れを水に流して『禊ぎ』することが、最大の美徳となるわけです」と。
日本人にとっては、恨みを抱き続けることはケガレたままでいることを意味する。ケガレを水に流すのは美徳になる。ケガレたままでいることが悪いことであるため、日本人は何でも水に流したがる。
他方、恨みを水に流さずに内に秘めている(あるいは表に出す)ことは悪徳になる。したがって、結果的に朝鮮民族の「恨(ハン)」が基本的に理解できないのである。
こうした、水に流してケガレを落とすという思想は、日本独自の考え方であり、世界の他の国々にはない考えであろう。
日本の国の水は清らかでそのまま飲める。どの地方に行っても手ですくってすぐ飲める(さすがに最近はそうでもなくなったかもしれない)。こんなにも自然に恵まれた山紫水明の国はおそらく世界中にはない。
こうした自然に恵まれた条件のために、ケガレを落とす手段として「禊ぎ」が考えられてきた。他の国々では決して生まれなかった「水に流す」という思想は、日本の自然条件によるのではないか。井沢氏はそのように推論する。そして次のようにまとめる(脚注4)。
「『水に流す』という考え方の根本には、罪は穢れであるという考え方があります。そればかりではなく、罪も過ちも災いも、あるいは不幸も、すべて穢れであって、その穢れを水に流すことが禊ぎである。
そしてそれは最高の善だという考え方を日本人は持っているということ。ただしこうした考え方は、日本人固有の、日本人だけの考え方だということです」と。
死は最大のケガレ
そもそもこの世に存在する宗教においては、罪、過ち、災い、不幸などとともに、「死」が取り扱われる。避けて通ることの出来ない「死」と、その対極にある「生」は宗教における最大の命題である。
ほとんどの宗教においては「生」を賛美する。「生」を賛美することは、意識的な作業を通してなされることが多い。自発的に心の中から出てくる賛美もあるが、多くは意識的に「生きているってことはそれ自体で素晴らしいことなんだ」と自分に言い聞かせる。
しかし、どんなに言い聞かせても、生きることに伴う「思い煩い」「不幸」は次々に襲ってくる。そのため「生」への賛美は、結局のところ個々人にとっては不完全な試みでしかない。
行きていく中での最大の不幸は「死」である。「死」は忌み嫌うべき、憎むべき「敵」である。「生」への賛美が不完全であるのに対し、「死」は100%確実に襲ってくる。どんなに意識の中から追い出そうとしても、あるいは追い出すことができても、「死」は不可避である。
「死」が人を襲うとその肉体は朽ち果てる。悪臭を放ち腐敗してゆく。細菌や小さな動物の食べ物となって土に還ってゆく。焼いて灰にすることによって腐敗から守ることは出来ても、土に還ってゆくという本質は変わらない。
世界的な宗教では「死」は対決して「克服」すべき対象である。たとえばキリスト教では、救い主が私の身代わりに十字架にかかり死ぬ。その「死」によって私の「罪」を赦す。
救い主は「死」から復活し、「死」を討ち滅ぼして私を永遠の住まいへと導く。このような「死」の「克服」がキリスト教の根幹である。
日本人の心に深く入り込んでいる原始宗教においても、「死」は取り扱われている。ただ、その扱い方は「死」との対決による「克服」ではなく、徹底して「死」を「避ける」ことだった。
そこで、神道では「死」を忌み嫌った。「死」に関することを意識から排除した。コトダマの基本原理にあるように、「死」に関係したことを口にしなかった。取り扱おうとしなかった。コトアゲする(実現するように願う)ことにならないよう気を遣った。
さらに、古代の日本人は「死」をケガレと考えた。ケガレの中でも最大のケガレであった。ケガレなら何でも水に流し続けてきた日本人にとって、「死」は決して水に流せない最悪のものだった。
それゆえ、われわれの祖先は「死」を避けた。ただただ意識的に、そして徹底的に避けた。
「死」に関係したこととは次のように多岐にわたる。戦争に関係するすべてのこと、殺人や犯罪とそれらを取り締まったり処罰したりすること、動物を殺して皮を利用する仕事。これらを忌み嫌った。徹底して避けるようにした。
日本人が「死」に関係したことを徹底的に避けて来たことは、明らかな歴史的証拠がある。それらを一つ一つ挙げていこう。(つづく)
脚注
4)井沢元彦「穢れと茶碗」1994年、祥伝社ノンブック、祥伝社。
10)http://ja.wikipedia.org/wiki/禊ぎ
(2558文字)
2009年3月23日月曜日