さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策
What should we do now? Explore the history of Japan and the world.
〜 PEKのひとりごと PEK’s soliloquy 〜
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ⅵ)非リアリスト(Ⅱ) コトダマ対リアリズム
コトダマ基本作用の応用
言葉と実体がシンクロするというが、コトダマの基本原理である。コトダマの世界では言ったことがその通りになる。
「雨が降る」と口にすると実際に「雨」を呼ぶ。「死」や「苦」という言葉を口にしたり表現したりすると「死」や「苦」を呼んでしまう。「かく言えばかくなる」の世界である。それを井沢氏はコトダマの基本作用と名付けている(脚注3)。
シンクロする言葉と実体という基本原理は、人々の願いを実現させるためにも使われた。「雨が降ってほしい」という願いを口にすることによって実際に「雨」を招こう(雨乞いのたぐい)。憎たらしい人の「死」や「苦」を願って呪いをかけよう(ワラ人形)。
この基本原理は今も生きている。めでタイ、よろコブ、フクろう、など縁起の良い言葉や物を好んで使う(特に正月や婚礼など)。こういった作業を「コトアゲ」という。ある願望を実現させるために言葉を発する「かくなるようにかく言う(コトアゲする)」世界である。
山本七平氏の「員数主義」を、井沢氏はコトダマの基本原理の一変型(応用)としてとらえる。インチキであっても、数合わせであっても、形式だけの辻褄合わせであっても、「あると言えばある」という態度、精神が「員数主義」だった。
言葉と実体はシンクロする。「何かがあると言えば、実体はなくてもあるとする」世界、これはコトダマ社会の一現象であり、「コトダマ基本作用の応用」である、と。
言葉には実体が必ず伴うというコトダマ信仰があるから「言葉」があればそれでいい。辻褄のあった帳簿があるだけで構わない。報告書だけキチンとしていれば「カタチが整った」と表現して中身はあまり問わない。
井沢氏は続ける。「形式さえ、数さえ辻褄が合えば、それに対応する実体が存在しなくても『存在』することにしてしまう。いや、そう信じるということだ。
『存在するものに名辞あり』というのがリアリズムの世界だが、コトダマという反リアリズムの世界では『名辞があれば存在する』となる。これが員数主義の実体である。これはインチキでありゴマカシであるのだが、日本人はこれに対して罪悪感を抱かない。
『どこでもやっていること』だし、日本人なら『形式さえ整っていればオーケー』という教育を、知らず識らずのうちに受けている。それはもちろんコトダマの影響であり、それが社会に員数主義を生み出すことになる。」
コトダマ世界ではリアリズムは通用しない。リアリズムを持ち出すこと自体が排除される。リアリズムではなくコトダマイズムの教育が社会で家庭生活の中で無意識のうちに徹底される。さらに井沢氏は次のように記す。
「これは反リアリズムの究極の形かもしれない。自己の信条や思想にかかわらず、現実に存在するものは存在すると認めるのがリアリズムである。きわめて当たり前のことである。
ところが日本ではしばしば、この当たり前のことが当たり前にならなくなる。その極端な例が冒頭に採りあげた帝国陸軍である。
『アメリカの軍事力、強大な経済力』は無視(ないと思えば実際になくなる)し、『自軍の実力や軍備』については、員数主義(名目上存在すれば存在する)を採る。これで戦争を始めればどうなるか、負けるのは決まりきった話である。」
山本七平氏が名付けた「員数主義」は日本を滅ぼした。井沢氏の言うコトダマが日本を後戻りできない破滅の道に導いた。
戦争とは、リアリズムとリアリズムのぶつかり合いである。リアリズムに基づいた究極の戦いである。日本はアメリカ(西欧文明)のリアリズムの前に敗北した。反リアリズムの究極の形であるコトダマイズムで戦っても勝てない。それは、なるほど当然の話である。(つづく)
脚注
3)井沢元彦「言霊」1992年、祥伝社ノンブック、祥伝社。
(1552文字)
2009年3月1日日曜日