さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策
What should we do now? Explore the history of Japan and the world.
〜 PEKのひとりごと PEK’s soliloquy 〜
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ⅵ)非リアリスト(Ⅰ) 山本七平氏による分析
リアリズム(現実主義)の反対はアイデアリズム(理想主義)だろうか。現実主義者はリアリストで、リアリストの反対は理想主義者(アイデアリスト)だろうか。
「コトダマ」という「キー」を使って歴史をひも解く人から見ると、リアリズムに対立する反リアリズムのことを「コトダマイズム」というようだ。リアリストの反対はコトダマイストと。
今回は、日本の歴史がコトダマイズムに支配されていた時代とリアリズムに目覚めていた時代の二つに分けられるという話である。まずは反リアリズムの究極の形である「員数主義」の話から入ろう。
山本七平氏が名付ける「員数主義」
ことによると山本七平氏についての紹介からはじめなくてはいけないかもしれない。イザヤ・ベンダサンの名前で書かれた希有な日本人論「日本人とユダヤ人」の著者として知られ、一九七〇~一九八〇年代に日本の論壇で活躍した評論家である。
現在でも「その評価を巡っては賛否が激しく分かれており、きわめて毀誉褒貶の激しい人物」(脚注1)とされる。
「日本社会・日本文化・日本人の行動様式を『空気』『実体語・空体語』といった概念を用いて分析した。その独自の業績を総称して『山本学』と呼ばれる」ほど(脚注1)絶賛される。
かと思うと「山本の著作には記憶にたよった不正確な引用や、出所のあきらかでないエピソードの披露などが多く、評論家としては信用に値しない」「山本は読者をあざむくために意図的・積極的に虚偽の事実を示しており、ほとんど詐欺師に近い人物である」(脚注1)と攻撃する人々もいる。
私自身はといえば、後者のような山本氏への攻撃には与(くみ)しない。
内容に入ろう。対米戦争で負けた要因について、山本七平氏は「員数(いんずう)主義」を挙げている(脚注2)。「員数主義」とは「『数さえ合えばそれでよい』が基本的態度」で「その内実はまったく問わないという形式主義」のことである。山本氏は次のように述べる。
「『紛失(なくなり)ました』という言葉は日本軍にはない。この言葉を口にした瞬間、『バカヤロー、員数をつけてこい』という言葉が、ビンタとともにはねかえってくる。紛失すれば『員数をつけてくる』すなわち盗んでくるのである。
いわば『盗みをしても数だけは合わせろ』で、この盗みは公然の秘密であった。
これは結局、外面的に辻褄が合ってさえいればよく、それを合わすための手段は問わないし、その内実が『無』すなわち廃品による数合わせであってもよいということである。」
この数合わせはインチキであり、形式だけの辻褄合わせである。それを山本氏は「員数主義」と名付けた。戦前の日本では「員数主義」が横行していたというのである。そういう現実が日本にはあった。
しかも、当人たちは後ろめたさを決して覚えない。何と愚かなと思うかもしれない。実際に愚かだった。井沢氏はこの「員数主義による敗戦」という山本氏の認識について次のように説明する(脚注3)。
「この員数主義が高じてくると、一雨降れば使用に耐えぬ飛行場が、参謀本部の地図に立派な飛行場として記されたり、何一つ役に立たない要塞が完成したと報告されたりする。そしてそういうインチキは、アメリカ軍という『実数』の軍隊に次々と粉砕されていく。
日本軍の敗北は、参謀本部の『員数』作戦と、それに対応する現場の員数報告による虚構の世界が、アメリカという『員数』のない国の訓隊によって破壊されたというのが、山本氏の認識である。この認識は正しいと思う」と。
歴史の中で起こった事実を、山本氏は自らの経験を基に独特の切り口でとらえている。「員数主義」はアメリカ(西欧)的リアリズムの前に無力だった。その認識は今でも立派に通用する。
員数主義と日本人的良心
しかしこれは戦前の軍部だけの話ではない。員数主義は現在も生きているという。
たとえば、帳簿さえ辻褄が合っていればいいという粉飾決算がそこかしこで行なわれる。政治家が義務づけられている政治資金の収支報告でも、実体のない名目で多額の支出が計上される。
革新団体の集会でも動員数の水増しという「員数報告」が行われ、警察側発表で数万人、主催者側の発表で十数万人という奇妙な発表が常に新聞の記事に載る。これらにほとんどの人は罪悪感を抱かないし、それを聞く我々も「またか」「いつものことだ」と当然視している。
他にも、見回りを行なって正確に自体を把握し報告すべきなのに、見回りに行ったことにして記録(形式)だけつけて報告するということが、日本の組織の中では往々にして見受けられるのではないだろうか。
それに異を唱えると「こうるさい奴」「細かなことに目くじらを立てすぎる」「忙しくて一々やってられないのが分からないのか」「現実を知らない」と非難が浴びせられる。
何も起こらない時はいい。しかしひとたび事故が起これば大問題である。時として大惨事となり、貴重な人名が失われる場合だってある。組織の中では、内部告発者が出るか正直な人が関与を告白しない限り、報告は実体を伴ったものとして取り扱われる。
そして内実を想像できる人々の間では、「ああ見回ったというのはウソだな」「見回ったことにして辻褄だけ合わせたな」とささやかれるのである。
員数主義は健在である。井沢氏は、この「員数主義」はコトダマの影響であると主張する。コトダマの支配下にある結果である、と。
専門家が知識と経験と情報を総動員して将来のことを予測する場合にも「事を荒立てない」「辻褄合わせ」の心理がどこかで働く。良い予測なら大丈夫だが、マイナスの結果が予測された場合に特にそういった心理が働く。
ジャーナリストも欧米なら平気で書ける内容が書けないし、原稿自体が届いてもデスクが発表をためらう。一九九〇年<平成二年>のイラクによるクウェート侵攻の予想は、欧米の新聞には堂々と載ったが、日本の新聞もテレビも後追いの発表にとどまった。
井沢氏は日本人の良心にも注目して断言している。「日本人の良心とは、コトダマに忠実なことである」と。科学者やジャーナリストにとって、本来「良心とは情報や分析をありのまま発表すること」である。
しかし、日本人の良心はそれとかなり違っている。特に情報や分析の結果が皆の望まない場合、その違いが鮮明になる。その結果を発表するかどうかの判断に、日本人特有の良心が働きやすい。
「コトダマを信じている人間にとって、マイナス予測をそのまま発表することは、そのマイナスが実現するようコトアゲしたことになってしまう。だから、少しぼかしたり論点をすりかえたりして、発表することになる。
日本人的に『親切で』『優しく』『良心的な』人ほどそうしてしまうのである。……中略……日本人の良心とはコトダマに忠実なことであり、物事を正しくあからさまに表現することではない。だから員数主義を、ゴマカシと呼ぶことすら抵抗があるような心理状態になる。」
それどころか、日本人的良心に従って員数主義的行動をとるケースさえあるという。「たとえば『これは政府の悪を追求する集会である。にもかかわらず参加者は少ない。だから水増しして発表をおこう。それは結局、社会のためになることだから許される』というような論理である。
これに対し、『それは虚偽ではないか、悪を追求する大会を“ゴマカシ”という悪でけがしてはいけない』などと反論したらどうなるか。『おまえは政府の見方か、みんなが一生懸命やっているのに、どうして余計なことを言うのか』と非難されるのがオチだ」と。
井沢氏の日本人論にはキーワードが幾つか登場する。この「一生懸命」というのもキーワードの一つとして採り上げているようである。一生懸命やっていればゴマカシであっても許される。当事者が日本人的良心に従って行なうなら、内実は辻褄合わせ(員数主義)でも良心が痛まない。よくある話である。(つづく)
脚注
1)http://ja.wikipedia.org/wiki/山本七平
2)山本七平「一下級将校の見た帝国陸軍」1984年、朝日新聞社。
3)井沢元彦「言霊」1992年、祥伝社ノンブック、祥伝社。
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2009年2月28日土曜日