さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策
What should we do now? Explore the history of Japan and the world.
〜 PEKのひとりごと PEK’s soliloquy 〜
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ⅴ)コトダマ(Ⅱ) コトダマイズム
コトダマ(言霊)とは?
コトダマとは「言葉と実体(現象)がシンクロする。ある言葉を唱えることによって、その言葉の内容が実現する」という考え方のことだという。簡単に言うと「雨が降る」と口にすれば実際に「雨が降る」という考え方である。
「雨が降ってほしい」という願いを実現させるために、「雨よ降れ」とか「雨が降る」という言葉を口にする(発音する)ことをコトアゲという。非科学的だと思われるかもしれないが、こういった考えに支配されているのがコトダマの世界だという。
みんなが「雨が降らない」ことを期待している中で、雨のことを口にするアマノジャクがいたとする。当日ほんとうに雨になった場合、「おまえが変なことを言うから本当に雨になっちゃったじゃないか」と、そのアマノジャクに非難が集中する様子を想像すれば良いという。
こうした非難は遊び半分でよく耳にする。また、不吉なこと、縁起でもないことを言わないという傾向がある。困難が予想されるかもしれない、ということを口にしないという傾向も。
ある病院で当直しているスタッフが三人いたとして、「今夜の当直は荒れて救急患者が入ってきそうだ」と誰かが感じてもそれを口にしないようにする。それを口にすると「本当に荒れた当直になったらイヤじゃないか」と遊び半分でたしなめる。
どういう当直になるか予想すること自体を避けるとか、「平穏無事な当直となる」と予想し心の中で念ずる、など。非科学的だと思っても、こうしたケースは結構「あるある」とうなずけるような気がする。
こうした「のどか」で無害な例に、何も目くじらを立てる必要はないだろう。しかし、井沢氏はハイジャック犯によって日本の航空機が乗っ取られた場合の対応を例に引いて、コトダマに支配されることの怖さを説明する。
「たとい犠牲が生じたとしても強行突入すべきだ。犯人にハイジャックは割に合わないことを思い知らせ、こうしたテロを防止するようにすべきだ」と、テレビなどで発言する人は日本にはいない。
何故なら、その発言の瞬間からテレビ局には非難の電話やメールが殺到する。曰く「それでも人間か?」「家族の気持ちを考えろ」「何故あんなことを言わせた?」など。
もし日本政府が強硬突入を選択して、ハイジャック犯は全員射殺されたが人質に被害が出たとすると、テレビで強行突入に賛成の意見を述べた人にはますます非難が集中する。「お前があんなことを言うからこうなったんだ」「お前の責任だ」「遺族にあやまれ!」など。
非難される人は「人質に死人がでることを願った」とみなされ、表明した「意見」に責任が問われる。そんな世論が巻き起こる。
日本に住んだことのある人なら、容易に予想できる現象である。ある意見を出せば、意見を言ったことの責任まで追求される。ここ日本という国は、何故か自分の意見を言いにくい社会である、と。しかし、本来ならば、それは非論理的である。おかしいのである。
「責任というのは与えられた権限に対応する概念」であって、治安当局には事件に対処する義務があり、事件を解決するための人員と装備が与えられている。
対処のための方策のうちどれを採用し実行するかという決定は、権限が与えられた人の裁量に任されている。その権限ある人が、事件の対処のために取った意思決定とその結果に全責任を負うのである。
そもそも悪いのはハイジャック犯というテロリストである。「強行突入をしてでも事件の解決を図るのに賛成だ」という単なる意見を出した人は、人質の中に死人がでることを願ったわけではない。
しかし、日本では、ハイジャック犯の卑劣さを非難する声よりも、犠牲者を出したことへの非難の方が大きくなる。単なる意見として「強行突入を」と言った人に「言ったことの責任をとれ」という非難が浴びせられる。
ハイジャック犯が全員射殺された場合、そのことに対しても「なぜもっと話し合わなかったんだ」「そもそも人殺しはいけない」「何故生け捕りに出来なかったんだ」という非難の論調がマスコミを通して紹介されるだろう。
ハイジャック犯の卑劣さを断固許さないと口では言うかもしれないが、断固許さないという決意を行動で示した人々に賞賛は向けられず、やむなく死者を出したということだけで非難され続けることになるだろう。しかも、単なる意見を言っただけで非難されるのである。
これはどう見ても健全な現象ではない。社会の病理として原因を探った方が良い。治療法を見つけた方が良い。井沢氏は言う。原因はコトダマである、と。
コトダマイズム
「そもそも論理的に考えてまったく責任のない者に、どうして責任を問うのかといえば、論理以外の『非論理』の世界で責任を問われるようなことをした、と非難する側が考えるからだ。
ではその『非論理の世界』における責任とは何か。それを解く鍵は『おまえがあんなことを言ったから、こうなったんだ』という非難の言葉の中にある。
つまり、こういう人間は『言ったこと』と『起こったこと』の間に、因果関係を認めているわけだ。すなわち、何かを言えば、それに対応して現象が起こる。言ったことと起こったことがシンクロする、そう信じているからこそ、この非難の言葉が出てくるのだ。
言い直せば、結局『おまえ』が発した『人質に犠牲者が出ても止むをえない』という言葉のコトダマが、人質の死を招いた。だからそんなコトアゲをした『おまえの責任』だ、ということなのである」と説明する。
「かく言えばかくなる(こう言えばこうなる)」というコトダマの作用をどこかで信じているのが日本人であり、そういう作用を信じることをコトダマイズムと井沢氏は名付ける。コトダマイズムを信奉している人々はコトダマ信者、コトダマイストと呼ばれる。
日本はコトダマ信者(コトダマイスト)の住む国であり、コトダマ信仰(コトダマイズム)がまかり通っている国だというのである。
コトダマの支配する世界では、言葉は「いい(結果を呼ぶ)言葉」と「悪い(結果を呼ぶ)言葉」に二分される。「言っていいこと」と「いけないこと」の区別が生じる。自由に言葉を使うことができない。
それゆえ、「言い換え」が頻繁になされる。例を挙げると、「値上げ」を「価格改定」と言い換える。「戦乱」の物語を「太平記」、「敗戦」を「終戦」と言い換える。「全滅」を「玉砕」、「明国侵略」を「唐入り、朝鮮征伐」と言い換える。
「中国大陸侵略、日中戦争」を「事変」、「帰化人」を「渡来人」、「支那」を「中国」あるいは「中国」を「支那」と言い換える。そして「言い換え」をしてどことなく安心してしまう。
コトダマ世界では、「意見」を「一つの見解」ではなく「その実現を望む祈り(願い)」ととらえる傾向がある。
意見は言葉で表現された一つの見解に過ぎない。しかしこの世界では、「その意見で使った言葉の通りのことを願った」という形で混同され、歪んで受け取られる。その結果、日本では「意見」に責任が問われるのである。(つづく)
(2867文字)
2009年2月16日月曜日