さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策
What should we do now? Explore the history of Japan and the world.
〜 PEKのひとりごと PEK’s soliloquy 〜
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ⅱ)土着文化とキリスト教
表題の考察をする前に、西欧での例を三つほど挙げてみる。「樹木崇拝」「太陽崇拝」「山岳信仰」である。日本にもある「アニミズム」「よろずの神」を西欧(キリスト教)ではどう扱ってきたか?
モミの木をクリスマスツリーとして立て装飾するようになったわけは?
六甲山北麓の有馬温泉郷に有馬玩具博物館という古い旅館を改修した施設がある。そこから出ている資料に、次のような文章が載っている。
「8世紀の初めのころ、イギリス人のボニフェイスという名の伝道師がドイツで布教活動をしていた時、いろいろなモノに聖霊が宿るとする土俗の文化(アニミズム)があり、
特に『樫の木』を崇拝していた当時のゲルマン人たちに、樫が崇拝に値しない特別な木ではないことを教えるため、ボニフェイスはその樫の大木を切り倒したという事件がありました」
「切り倒された樫の大木は周囲の木や草をなぎ倒しましたが、不思議なことに『モミ』の若木だけが倒れずに残ったことから、
『モミの木が倒れなかったのはキリストの降誕と同じ、奇蹟である』とゲルマン人たちを言い含めました。クリスマスにモミの木を立てるという習慣はドイツから始まりましたが、どうもこの事件がきっかけになって始まったもののようです」と。
クリスマスの起源は?
Wikipediaによると、「降誕祭とは別に1月6日をキリストの公現祭として祝う日が存在していた。12月25日の生誕祭は、遅くとも345年には西方教会で始まった。ミトラ教の冬至の祭を転用したものではないかと言われている」(脚注1)。
ミトラ教については、「ローマ帝国の領土において広範に流布した宗教でミトラス教と呼ばれており、主に軍人を中心に普及し、初期キリスト教とローマ帝国の国教の地位を争ったほどに古代においては優勢な宗教であった」とある。
「ローマ帝国時代において、ミトラ教では冬至を大々的に祝う習慣があった。これは、太陽神ミトラが冬至に『生まれ変わる』という信仰による。短くなり続けていた昼の時間が、冬至を境に長くなっていくからである。
この習慣をキリスト教が吸収し、イエス・キリストの誕生祭を冬至に祝うようになったとされる」(脚注2)。
再び有馬玩具美術館の資料。
「太古からの太陽崇拝とそれに関わる冬至の祭儀。そして常緑の木が象徴する不滅、そして巨木は天国に届くほど枝を伸ばし、根は地獄に届くとする樹木崇拝。
それらを含む土着のアニミズムと、精力的に布教活動を行うキリスト教の教義が渾然一体となったところから、さまざまな様式と儀式と習慣が生まれたと言っても間違いはないでしょう。」
長々引用したが、こうして部外者に指摘されるまでもなく、上記のどちらも聖書的な根拠が微塵もないことは明白である。
アイルランドのクロッグ・パトリック(Croagh Patrick)巡礼について
次に、山岳信仰が巡礼へと形を変えた例をあげる。聖パトリックの山とも言われるクロッグ・パトリックは、先住民族の信仰の対象だった。
アイルランドのキリスト教化は、主に聖パトリックによるところが大きい。
彼は「イギリス西部、ウェールズで生まれ、幼少時、奴隷としてアイルランドに連れて来られ、その後神の声を聞きお告げに従い牧場を脱走しイギリスに戻り神学を学ぶためヨーロッパ大陸へ渡った。彼は7年間神学を学んだ後、故郷のウェ-ルズへと帰国する。
「432年、ケレスティヌス1世(ローマ教皇)から布教の命を受け、再びアイルランドを訪れる。
このときアイルランドに元々存在した土着の信仰(ケルト系の信仰)を改宗させるのではなくキリスト教とアイルランドの土着信仰を融和させる形を取りキリスト教を布教した。そのことはケルト十字に象徴される」(脚注3)という。
ケルト人は、「自然界に存在する『よろずの神々』を信仰しており、ドルイド(魔術師・預言者)と呼ばれる神官が人間と神の仲立ちをしていた」(脚注4)。
聖パトリックがアイルランドに来たきっかけは、海賊にさらわれて奴隷として売られたことによるが、「父は助祭、祖父は司祭だったこともあって、厳しい環境の中で祈るように」なり(脚注4)、「人々の心の支えとなっていた土着信仰、ドルイドの教えを体験し」た。
彼は「再びアイルランドに戻ってキリスト教をケルトの神話や伝説を巧みに融合して布教に成功」(脚注5)したというのである。
クロッグ・パトリックは、彼が四十日間修行をした場所として知られ、現在でも毎年七月の最終日曜には全アイルランドから巡礼者が集まり山に登るという。
ちなみにケルト十字は「ラテン十字と十字の交差部分を囲む環からなる」シンボルで、「アイルランドでは、聖パトリックが異教のアイルランド人を改宗させる際にこのケルト十字を創った、という伝説が広く信じられている。
彼はキリスト教のシンボルであるラテン十字と太陽のシンボルである円環を組み合わせたとされる。これは太陽の生命の源としての属性を十字と結びつけることで、十字の重要性を異教の信者に伝えるためである」(脚注6)という。
こうした「いい加減」とも言えるアニミズムとの混交を、一体どうとらえたら良いのだろう?ある人は言うかもしれない。それは混交ではない。妥協ではない。敗北でもない。アニミズムの中にいる人々に理解してもらうための、許容された取り込み、包含である。
日本の伝統文化とキリスト教
日本ではどうだったのだろう?
西欧と同様に、異教的な習俗との混交あるいは取り込み、包含をしてゆく傾向が強かったのだろうか?充分な対決をせずに、逆に取り込まれてしまう状態だったのだろうか?それとも、結構生真面目に、日本伝統文化や習俗と対決する姿勢が強かったのだろうか?
冒頭の三つの例を挙げて「日本でも異教的な習俗を取り入れろ」「取り入れたって構わない」と言っているわけではない。
アニミズム的なものに対してそこまで包容力のある態度が許容されるのなら、日本の伝統文化や考え方の中の良いものは、なおさらどんどん評価していくべきではないかというのである。
はたして、日本の伝統的な文化や考え方、生き方、日本の歴史や世界とのかかわり方について、
これまで、どのような取り組みがなされて来たのだろうか?
何も考えず、どこかに追いやったままだったのだろうか?
訣別すべき過去とだけ考え続けたのではなかろうか?
反省すべきものと、そうでないものを適切に峻別してきただろうか?
良いものを生かしていく道を充分模索してきただろうか?
現在の生き方と積極的に融合してゆく価値のあるものを、
どのように取り扱ってきただろうか?
今の私たちの立ち位置は、
いかにもバランスを欠いていないだろうか?
歪んでいないだろうか?
こうしたアンバランス、歪みは、どこかで我々を苦しめないだろうか?
自分の中で、疑問が次々に膨らんでゆく。そして、疑問は危機感に繋がってゆくような気がしてならない。(マイ・アーカイブズへ)
脚注
1)http://ja.wikipedia.org/wiki/クリスマス
2)http://ja.wikipedia.org/wiki/ミトラ教
3)http://ja.wikipedia.org/wiki/パトリキウス
4)http://homepage2.nifty.com/aquarian/Ireland/Irekand6.htm
5)http://www.eikokutabi.com/ukwhatson/uk_guide/features/celt/patrick.html
6)http://ja.wikipedia.org/wiki/ケルト十字
(3113文字)
2008年12月31日水曜日